冬の本



「冬」と「本」をテーマに、もしくは「冬の本」という言葉から発想できることを、自由に書いてください…と依頼された84人の小説家や著名人たちのエッセイ(だったり、読書案内だったり)が載ったアンソロジー。
「夏葉社」という、寡聞ながら今まで知らなかった出版社から出ている。
夏葉社なのに冬…なんだな。とか、くだらないところに引っかかってしまったw


ここにマッタンも寄稿してると聞いて、さっそく入手。
マッタンは万城目学さんと町田康さんの間で(あいうえお順なので)、端正で落ち着いた文章を飄々と披露していました。
ありきたりの情景を、自然に心の奥の深いところに届けてくれる文章。気負ったところのないいい文章でした。
さりげなく上手い。やっぱりこのトーン、好きだなぁ…としみじみ思います。
彼の文章の中にはいつも、どこか記憶の糸がつながっているような既視感を感じるのです。


マッタンの挙げていた冬の本はカフカの「田舎医者」でした。
……読んだことがない。どころか、その作品の存在さえ初めて聞きました(汗)。
読んでみなくては。
他には、池内了さん、内堀弘さん、木内昇さんの文章が気に入りました。
いずれもしんしんとした冬の情景が感じられて。


私にとっての「冬の本」ってなんだろう…と、ちょっと考えてみました。
小学生の頃に読んだ一連の宮沢賢治の童話かもしれない。
雪渡り」「シグナルとシグナレス」「水仙月の四日」「風の又三郎」「銀河鉄道の夜」……
私の通っていた小学校はかつては山の分教場だったところでした。学年ひとクラスしかない小さな古い小学校。そこに、雨の日も風の日も、毎日往復5キロの山道を歩いて通ってました。
雑木林と田んぼと畑が広がる景色の中には舗装していない道もありました。今思えば、明治時代と大差ないような、時間の止まった場所がまだあちこちに残ってた。
宮沢賢治の童話を読む時、私は違和感なく自分の日常に重ねて読むことができたのです。
しん…とした冬の朝も、轟々とうなる風の音も、霜柱が崩れる時の輝きも、木の実のつややかな手触りも、街灯ひとつない夜の闇も、晴れた日に遠くからごく細く聞こえてくる汽笛も……私の住む世界には普通にあった。
私は当時でもすでに貴重だった里山の自然の中で、多感な幼少期を過ごすことができたのです。
ウチの子供たちは霜柱を踏んだことがありません。桑の実を食べたこともない。町の明りのない夜空を眺めることもありません。
彼らが賢治の物語を読むとき、経験ではなく想像を駆使するしかないんだなぁ…と、フト気づいて、隔世の感を覚えます。
それでも楽しめるのが物語の良さなんですけどね。
でも、「自分はかつてあの物語の中にいた」という記憶は、私のささやかな自慢です。
こんなことも、あの頃、不便な思いをしたり、苦労したり、怖かったりした見返りだと思うと、悪くないものです。