東北へのボランティアニット


毎年この時期になると、日本編物協会主催のボランティアニット(海外の発展途上国の子どもたちにセーターを送る企画)に送るものを編んでいるのですが、今年は震災があったので、別の団体が主催する被災地へのボランティアニットに参加することにしました。
簡単な二目ゴム編みのニット帽です。
戸外で作業する男の人向きにシンプルで機能的なものを作りました。
誰かのお役にたちますように。



今回、参加してみて思ったことをぶっちゃけて言っちゃうけど。
東北の寒い被災地に温かいニット防寒具を送る、というのは意義のある行為のように思えます。すごく単純に考えればね。
でも、ホントにこういうの必要としてるヒト、いるのかな?
この同じ日本に?しかも震災から半年以上も経ってさ。
……いないような気がする。
いや、きっといないと思う(爆)
支援物資が余りまくってるとか、義援金さえ配られずにストックされてるといったようなニュースも、もうずいぶん前に聞いた。
衣類や防寒具だって大量に余ってるらしい。
そんなところに手作りニット?
…いらんだろう。
ゴミが増えるだけじゃんか(哀)


そんなこんなで、編んでる途中から私は完全に”必要の無いものを編んでる”感でいっぱいでした。
このニットは誰の元にも届かない。
そう思いながら編んだ。
虚しかった。
でも最初に参加表明しちゃったので後に引けず、とりあえず予定枚数を仕上げて送りました。
どうか、誰かの元に届きますように…と諦め半分で願いつつ。


ボランティアにとっての見返りとは、金銭や感謝の言葉ではありません……てなことは誰もが知っている。常識だ。
そんな彼らも、”誰かのためになる”という確信があるからこそボランティアをするはずです。
見えない向こう側に、助けを必要とする人がいて、そこに手を伸ばす…というのがボランティアの基本だからね。
実はそれこそが見返りなのだ、ということに、今回私は初めて気がつきました。
義援金を銀行振り込みしてるだけでは、いつになっても気づけなかったことです。お金を送る、という行為はそれだけでこちらが満足しちゃう。その行き先はもう、考えてない。銀行のATMの前で完結する”ボランティア”なのです。
でもじっさいの”ボランティア”というものは、相手がいて初めて成り立つのです。当たり前だけど。それは漠然とした「被災地」という名の概念ではないの。


そこに助かる人がいるから、喜んでくれる人がいるから、こっちは無記名でも、無報酬でも、頑張ることができる。
”誰かのためになる”という確信(そこに付随する自己満足も含め)が無くても、ボランティアに参加できますか?
その行為が誰の元にも届かず、誰に影響を与えることも無く、見向きもされず虚空に消えてゆくだけだとしたら?
……それってもはやボランティアではない。
じゃあ、なんでしょうか?
「偽善」かもしれない。


私はやはりニッターとして、編んだモノに対して愛情をもっていたいのです。
ボランティアでニットを編むのだったら、やはりきちんとそれを必要としている人の元に届けてもらわないと。ただ被災地の公民館に山積みになってるだけでは虚しすぎます。
適所に届いてるかどうかはもはやこちらは知りようが無いわけだけれど、そこを信じて託したのですから、主催者さんにはぜひ頑張ってもらいたいです。ここがボランティアになるか偽善になるかの別れ道、だと思うので。
いや、あれだけの企画を立ち上げたのですから、きっと責務を全うしてくれると信じてますけどね!
私の編んだ糸さんのためにも、お願いします。


ボランティアで物資を送った先の人たちの喜びが確認できたり、笑顔が見られたりして、「自分のやったことが確かに誰かに届いている」というのがわかったら、人間としてやはり嬉しいものです。
そういう意味では、やっぱり毎年参加してる編物協会の途上国へのボランティアはやりがいがある。
主催団体がニットを愛することを第一義としている団体だし、後日報告される届けた先での現地レポートでは、物資を手にして微笑む子どもたちの笑顔を見ることができますからね。(こういう手間がかかる分の出資もするわけだけれども、それも含めてボランティアなのでね)
誰かの元に”手渡せた””伝わった””喜んでもらえた”という感動が感じられると、「ああ、参加してよかったな〜」と思えます。


使った糸さんを記しておきます。



オリムパス「ジェームス・ディーン ゼロ・ツィード」 色番4 
50g、80m ウール:86%、アクリル:14%

チャコールに黄土色のネップが入ったツィードです。
何年か前の福袋に入っていたもの。