陽光青年の憂鬱


しばらく話題に触れられない間に、阿嶽がなんだか深刻な感じになっちゃってて心配。
事の発端は北京版アルバム「我想要的感覚」。
これはもともと台湾版ミニアルバム「両手空空」に、寄せ集めの5曲を無理やり付け加えてレコード会社が強引に売り出したもので、阿嶽本人は大いに不本意に感じているものです。
そもそもこれの元になった台湾版のミニアルバムを作った時点で阿嶽の意識の中では、レコード会社の意向を受けて仕方なく作ったという不全感があったのです。
でも、音楽活動も経済を負っているのだからそういうことも仕方がない、ミニアルバムをちょこっと出して時間をつなぐくらいなら…ということで、結局はヨシとしたわけ。
でもこれにさらにネットで発表した曲や以前の曲などを寄せ集めて北京版のフルアルバムを作ることは、阿嶽の許容を超えていた。
会社が強引にこのアルバムを製作してしまい、マーケットが動き出してしまったので、阿嶽もしぶしぶリリースを承諾した(暗黙の了解をするしかなかった)のです。


なのに会社側は阿嶽に感謝するどころか、このアルバムのキャンペーンを大陸全域で繰り広げようとしている。
「縦貫線」で丸1年、ツアー続きでパフォーマーとして徹しなければならなかった阿嶽は、その間満足な作曲活動ができなかった。これを本人はすごく重く考えていて、縦貫線後はどうしても曲作りの時間が欲しいといっていたにもかかわらず、会社は彼を営業マンのごとく各地に派遣し続けている。
大勢のファンと握手してサインしてCDを売れ、と。
アイドルでもないのにお愛想をよくして、機嫌よくファンサービスして、不本意なアルバムを手ずから売れ、と。
そのことに阿嶽がキレて、自分の微博(ツイッター)でつぶやいたのです。「蒸発しちゃいたい」と。
「こんなことが優先事項になるのなら、もう曲を作ることはできない。ここ(芸能界)にいる理由も支えもなくなる」と。
先日の西安でのサイン会では、阿嶽がニコリともせず、ひと言もしゃべらず、終始黒いサングラスをかけたまま無愛想にサインをした様子が、非難めいた調子で新聞記事になってました。
ここんとこ行われているライブでもまったくノリが悪く、元気がなく、何もしゃべらず、サングラスを外さず、ただ淡々とステージをこなし、ニコリともしないで去ってゆく様子を「冷たい」「無愛想」と責められている。
サイン会で「髭に触らせて」と言ったファンに「ダメだ」といって空気を悪くしたと書かれたり、MCホットドッグと一緒に出演するとお犬さんにだけしゃべらせて阿嶽は何にもしゃべらない、とまた批判。
そしてまた阿嶽はネットで愚痴をつぶやく。


阿嶽と大衆(レコード会社も)の間には、認識にズレがある。
スターなのかクリエイターなのかという部分で。
私にとって阿嶽はクリエイターです。最初からずっと、そういう認識。
だからべつに彼が売れようが売れまいが、気にならない。最初のうちはそんなファンが多かったんじゃないかと思う。
でも、縦貫線以降の大陸での絶大なる人気はスターとしての阿嶽を生んだ。求められるものが今までと大きく変わって来た。
サインだったり、ファンサービスの笑顔だったり、頻繁にリリースされる新譜だったり…そういうものが求められるようになった。
レコード会社にとっても今まで以上のドル箱になった。
稼げるうちに、どんどんカネに換えないと!と欲張って、ハードワークを押し付けるようになった。
なんでもかんでも金儲けの手段に考えて阿嶽を使う。消耗させている。これはもう立派に「搾取」ですよ。
事務所に求められるままの膨大な「営業」をこなそうとした阿嶽自身を私ゃすごいと思ったくらいですからね。
こんなになるまで、彼は良くやったと思う。
でもやっぱり、もう限界でしょうよ。そんなもん、阿嶽にゃ無理だよ。
彼は最初からずっと、音楽を作りたいがためにここ(芸能界)にいる人、なんですよ。
パフォーマンスしたいわけでも、スターになりたいわけでも、金儲けたいわけでもなく。
そんなことくらい、彼の周りにいる人たちはわかってやってくれよ、と思うね。
タフでふてぶてしく見えても、実際は繊細でナイーブですぐに考え込んでしまう人なんだからさ。


「ステージは仕事。曲作りは人生」と、阿嶽は常に言っている。
阿嶽のカラダに音楽が流れてくるのは、それが仕事だからではない。阿嶽がちゃんと生きているからだ。
阿嶽の心や、感性や、好奇心を枯らせることなく健康でいてもらうためには、私たちはある程度、阿嶽を忘れていた方がいいのかもしれない。
自由に、広い海に放してあげなくては、彼は息が詰まって瀕死になってしまう。
思うままの人間活動(この言葉を掲げて私の大好きな歌姫(ウタダヒカル嬢)は業界を去って行ったけれど、きっと彼女も同じような経緯をたどってのことだろうと思う。いつだって芸術家と業界の思惑はすれ違うのだ)の中でしか生まれ得ないものは思いのほか多いんですよ。


こんな時、自分が意思疎通もままならない一介のファンでいることがツラくなる。
自分の気持ちの深さと、立場の軽さの乖離が大きすぎて、腹立たしい。
私は幻想の中の阿嶽を愛してるだけで満足な”迷惑のかからないファン”であり、私自身はそれでよかったわけだけど、こんな痛ましい阿嶽を見ても何もできない自分に対して、なにか「失格」だな、と感じる。
サインが欲しくて群がっているファンとどう違う?
自己中なファンであることは、わたしもまた同じような気もする。
誰も阿嶽に寄り添えない。
そのくせ自分の想いだけをこうして滔々と語る。ファンなんて、みな同じだ。
阿嶽が今一番嫌いなものは、もしかして「ファン」という名の傍若無人かもしれない。
群がるファンを、「もっと、もっと」と手を伸ばし続ける亡者のように感じてるのかも。
ツライなぁ(涙)


とりあえず一昨日のつぶやきでは、阿嶽は久しぶりにちょっと元気そうだったので一安心です。
元気そうなつぶやきは1ヶ月ぶりくらい?ですかね。
台湾に帰って、自転車に乗ってるらしい。束の間の休日に過ぎないのかもしれないけれど、少しでもリラックスできたらいいな。
どうか思い切りわがまま言って、自由に生きてね。
なんなら芸能界なんて、引退しちゃったっていいよ。それで阿嶽の心がラクになるなら、私は大賛成だ。
いつだって阿嶽が幸せでありますように。
今、私が阿嶽に望むのはそれだけです。