続けることの難しさと効果


今月は、あるときから一念発起して「毎日ブログを書こう!」と決心しました。
ブログもろくに更新できないようじゃどうしょもない、と思ったのと、
誰か見届ける人がいるところでルーティンを持ってちゃんとこなす、ということをやってみたかったのと、
ただ通り過ぎる日々ではなく、何かの記録を残すことに意味を感じたりしたことと、
単にハリポタ萌えを書きたかったのと…いろいろあるのですが、これが思ったより大変でした。
毎日何かをちゃんと続ける、ってのは大変なことなのね。
でも、このくらいのことを大変だと思っているのはやはりどこかが脆弱になってるに違いないので、”大変感”がなくなるまでは頑張ってみようと思っています。
ちょっとした訓練。気まぐれに任せて書く、ということから離れるためのね。


毎日更新してると、なんだかどうしょうもなくクダラナイことを書いているような気分になる日も多々あります。
が、そんなものも次の日には過去に流れていってしまう。
あまり他人の心には残らないものかもしれない。それでいいのだと思う。
書いたものはどんどん過去に流れて消えてゆく。その場限りの話題にすぎません。
でも、私の中ではそれは積み重なってゆく。
この先、あるときこれらは膨大な私自身の記録になる。それを読んでいちばん楽しいのは、私自身なのです。
私は、私のために日々めぐりあう気持ちを書き残そう。
だったらもっとマニアックなところに深入りしてもいいんじゃないかって気持ちもあるけれど、やはりそれは違う。ここはブログだから。
ささやかなりとも他者に持続的興味をもって読んでもらえるものを書きたい、というモチベーションありきでブログという場を選んで書いているんだもんね。
自分という枠に閉じこもってしまわずに、少しでも”発信する”気概を持っていたいと思います。


たまの更新は勿体つけた「重みのあるひと言」を放つようで却って恐い。恐いからさらに口をつぐんでしまう。
そういう意味では毎日何かを垂れ流している方が気が楽です。
たまーに珠玉の言葉があっても、それも流れていっちゃったりなんかして、そういうのもステキ。人生そのもののようで。
そう、言葉というのももう1つの人生なんですよね。
だからやっぱり私は常に言葉をもっていたい、と思うのです。
できれば「つぶやき」ではなく、語ることで。それがあれば、なんだか倍生きるような気分になれるから。
私は、何かをここに書かなければ確実にいなくなってしまう人格(yonaという、もう一人の私)を1つ抱えているわけだし。


明日から北京に行きますので、ブログはちょっとのあいだ休みます。
北京市内では急速に地下鉄網が完成していろんな地区にすぐ行けるようになって便利になったなぁ〜と思っていたんだけど、今回の高速鉄道事故の大惨事を見たら、地下鉄に乗るのが不安になっちゃった。想像を絶する杜撰管理なんだもんね。ガクブル!
地下鉄だってあまりに開発が早かった。かなり怪しい。
安全面を無視したスピード自慢の突貫工事なんじゃないか?システム制御、ちゃんとできてるのだろうか?そこを信用するのはかなり難しい。ネットで調べてみると、報道されていない小さな事故も多発してるようだし。
というわけで、安全面を考慮して、現地での移動は昔ながらのタクシーにしておこうと心に決めています(タクシーもスピード運転すっから怖いんだけどねー(汗))