「国」とはなんぞや


ちょっと調べごとがあって、戦時中の庶民の生活の覚え書きのようなものをよく読んでいます。
飢えと困窮の中、家も家族も失って空襲の中を逃げ惑いながらボロボロになった人たちがあちこちでようやっと生き延びていた頃の話です。
太平洋戦争末期のこの国はすでに国家の体を成してない。
誰のために、何のために、この人たちはこんな苦しい思いをしたのだろう?
無能な政治家のせいで国民がどんどん殺されてゆく。
「国」は国民を守るすべなど持たず、都合の悪い事実を隠蔽し、捏造し、体裁を取り繕うために国民にとことん犠牲を強いたのです。


ん?
これってそのまま今の日本にあてはまるぞ。


当時の国民がこんなどうしょうもない「国」に対して何一つ「NO!」と言えなかったのは、大日本帝国下の教育のせいだろう、と思っていました。ある種の「洗脳」によって、国に対して誤った信頼を持たされていたのだろうから仕方ない、と。
でも、今の日本の状態を見るにつけ、国民が国に対して「NO!」と言えないのは、何も教育のせいばかりではないように感じてます。
私たちはこの国が今、腐りきっていることを日々苦々しく思っているけれどどうにもできない。
不満を持っても、苛立ちをつのらせても、ちょっと頑張ってデモをしたりしたって、大声で「NO!」と叫んだって、何一つ伝わらないし、解決しない。政治家たちは無為無策のままとんでもない方向を向いている。
政治家自身が、結局のところ自分たちの無能なボスに「NO!」が言えないんですからね!あ然とする。


政治にはそもそも私たちの声など届かない。届いてもうまくスルーされてる感じ。
声を上げるのを諦め、無力感の果てにどうしょうもなくなって、過ぎ行く時間に身を任せてしまっても誰も責められない。だって、いい加減疲れてる上にこれ以上無益に疲れたくないもんね…。
日本は今、行き場のない何万という避難民の救済と、腐臭が漂う果てしない瓦礫の撤去と、垂れ流される高濃度の放射能汚染水の処理と、危険地域にいる子どもたちの健康確保と、失われた産業の保障と、不足が見込まれる電力の供給と、著しく失墜した他国への信頼回復と…あれもこれも山積みになった問題を、即刻どうにかしないといけない。急務のはずです。
こんな未曾有の「非常時」にあるというのに、「国」がやってることはまるでトンチンカンだ。まったく次元の違う場所で、自分たちのイス取りゲームに興じてるだけ。
くだらなすぎて言葉もない。


私たちは、どこに着くのかわからない下手糞な船頭の泥舟に呆然と座って、ただ流されてゆく。
「危ないよ!」「その船、降りなくちゃだめだよ!」と対岸から外国の人たちの声が聞こえる。
でも、どうしようもない。
もはや私たちはこの船の降り方がわからない。
今度この船の運賃が倍になるようですが…もうね、詐欺ですよ。


安保反対やベトナム戦争反対を訴えて声を上げ続けて敗れていったかつての若者たちに、私がどこか憧れのような感覚を抱いているのは、彼らの思想や行動に共感しているわけではなくて、「諦めていない」部分に否応なしに惹かれるからなのかもしれません。
大きな相手に無理を承知で立ち向かってゆく情熱に、是非を超えた磁力がある。
闘う人間が善で、従順に流される人間が悪だとは思っていないけれど(それじゃあんまりですよね)、結局のところ流されているだけの自分を思うとき、そうでない彼らが輝いて見えたりするのです。隣の芝生が青く見えるだけなのかもしれないけどw


実際、私はとことん諦めています。
気持ちの中では完全にアナキストリバタリアンと言ったほうがカッコいいけれど、そう言えるほどの行動は伴ってない)ですので、ホントは国になんの期待もしていないし、ブログで政治ネタを書くことさえ煩わしく思ってます。
結局は自分でどうにもできない不平不満でしかない。無駄な繰り言を言って自分の時間と労力を損しているだけのような気がするから。
あまりに呆れたので今日は書いちゃったけど…やっぱ不毛だったw


いかにもな一曲をのせとこう。
こういうの聴くと、その時だけ胸が熱くなる。
今流行の「頑張ろうニッポン!」的な思考停止よりも考えるきっかけをくれる。
「私たちの望むものは 私であり続けることなのだ」
まさしく。
バックにはっぴぃえんど!豪華だなぁ。