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川本三郎先生の大ファンで(って、このブログではろくに触れていないんですがそうなんですよ)この作品が映画化されると聞いたときからものすごーく楽しみにしていました。
しかも主演がマツケン&ツマブキ君ですよ!
川本先生をツマブキ君が演じるなんて、めっちゃいい感じじゃないですか。顔は似てないけど、イメージが近いもん。すごくうまく演じてくれそうな気がする。
こりゃ見ないわけには行かないでしょ。
…てなわけで、お嬢を連れて行ってきました。


原作は、実際に起こった朝霞自衛官殺害事件の当事者である川本先生の自伝を基にしています。
出てくる「東都新聞社」は朝日新聞社のこと。
東大出のエリート新聞記者である川本さん(=沢田)が、いかにして事件に巻き込まれ、いかにして挫折したか。その背景にある彼の心性や時代背景を細かく拾いながら描いています。
2時間半くらいの長さがありますけど、長いな…と感じたりはしませんでした。淡々と描いていながら、観客をひきこみ続ける磁力は常にある。
傑作!というほどではないけれど、期待したとおりのいい作品でした。
映像も、すごくよかった。物語性を際立たせるあの質感はいい。グッと引き込まれますね。映像だけ言えば、賞獲れるレベル。


でも、見ててふと思ったんですよ。
これはいったい、誰のための映画なのか?
どんな層を観客として想定しているのだろう?


私はシュミでこの時代のことを調べたりするほど学生運動を「物語として」好きだし、当の主人公(である作者)のファンで原作も読んでいる。この作品を見るモチベーションは十分にある。でも、こんな人間、そんなにたくさんいませんよ?他にどういった人が何を求めてこの作品を見るのだろうな。
共感持ってる同時代人?ノスタルジー抱えた年配者?
少なくともマツケンとツマブキ君のファンであろう若い世代を取り込むには至ってない感じはする。
それというのも、昨日公開初日を迎えたばかりだというのに、会場はガラガラだったからです。
人口50万都市の2つしかないシネコンの一番小さなスクリーンで上映しているのにもかかわらず。(シネコン自体は混んでいて、例えば同じ時間に上映の「プリンセス・トヨトミ」はでかいスクリーンでチケット売り切れでしたからね)
わずかな観客は全員、作者と同世代かと思われるような年配者です。
ウチのお嬢以外に若い子、誰もいない。次に若そうなのアタシですからね(爆)。
上映前、会場を見渡して、「これ、絶対にハリポタの予告編は流れないよね」って(案の定、なかった)。「ロペ」もやらないんじゃないか?とかさw(「ロペ」はありました)
お嬢だって「難しそうで、ついていけないかも…」というのを、「ダイジョブ。とりあえず観とき。わからない言葉があったらママが説明すっから」となかばゴーインに連れてきたんですからね。放っといたら見ないわな、高校生くらいでは。全共闘だのセクトだの闘争だの言われてもなにがなにやらわからない若い子には、あまりにもとっかかりがないやね。
でも、お嬢は観たあとで面白かったともつまらなかったとも言わずに、話の中のわからなかった部分や言葉の意味をいろいろと聞いてきてくれて、私に語らせてくれたので、救われましたよ。
私がずっと観たいと騒いでて観にいったのをわかってるから娘も気を遣ったのだろうなw 
「つまんなかったー」とか言われたら、確かにそうであっても、自分のせいじゃなくとも、なんか凹むもん。
おかげで当時の学生運動に関していろいろレクチャーすることができました。
って、私だって実際のところはまるで知らないワケで、全部本で得た知識だけど。あの頃まだ幼児だったんだもん。
でもとりあえず、こういうのを映画化するってことは知らない世代にも語る隙を与えてるということですからね。ちょっと気がラクですよ。
だって、どうしたって当時者じゃない若者があの頃の話をしてたりすると、団塊のおじさんたちが「わかった風な口聞くな」とか「なにもしらないくせに」とか言う傾向があったわけですよ、今まではね。なんだか入りにくい感じが濃厚にあって。新しい世代の若者があの時代を自分の感覚で語ってはいけない雰囲気というかね。まるで腫れ物に触るようでした。
でもね、あんたたちのやってたことなんてすでに「歴史」なんだよ、ってことですよ。
歴史ってのは、後世の者が解釈をするんです。どう解釈しようが黙っとれや、と。だんだんそんな空気になってきたのかもなぁ、って思いました。いい傾向ではないですか。現にこの映画も当時を知らない若い人たちが作っているのだし。
若い人たちが(若いというのに私も入れてもらうけれどw)この時代に興味を持ったっていいじゃないの。何か、惹かれるものがあるわけだから知りたいのだし。当事者の皆さんも、自己批判はもうやめて(?)あの時代のことを自分たちだけの記憶に閉じ込めずに、もっともっと開放したらいい。



主役二人の演技はとてもよかったです。やっぱこの二人は巧いわー。物語をちゃんと現出してくれる。
ツマブキ君はまっすぐで、情熱的で、ちょっと鼻につくインテリの傲慢も感じさせる若い時代の川本さんを髣髴とさせました。キネ旬のコラムを書いてる時代の格好や仕草はまるでご本人かと思うくらい似てた。←映画的にはこういうの(似てようが似てまいが)なんの意味もないと思うけど、ファンとしてはそこがまた楽しいのダw私はそれ込みで見たいと思っていたのでね。主人公と川本さんが乖離してたら嫌なわけ。
「センチメンタル」という言葉が、劇中で何回となく主人公の沢田に浴びせられていて、この言葉こそ、いい意味でも悪い意味でも川本三郎その人なのだという印象を私は持っているのですが、この映画でツマブキ君が演じる沢田は、見事にセンチメンタルでした。その言葉以外で巧く言い表せないほどに。
というわけで、100点満点。


マツケンは、活動に憧れ、虚栄を欲しがるだけの中身のない男(=梅山)の活動家ごっこを絶妙に演じてます。
とにかくこの人の演説のできなさ、説得力のなさ、チャラさはハンパないのですが、そこを誤魔化すときの態度とかがね、巧いの。
不器用風に人を言いくるめる、というか…弁舌鮮やかでない分、感覚に訴えるみたいなw
あとになれば、なんで沢田はこんなヘッポコに騙されたんだろうなぁって思うんだけど、あの空気感にとりこまれたのかもね(ホントのところ「CCRと宮沢賢治のせいでころっと騙された」ようですが)
そもそも、最初のシーンで梅山(マツケン)が廃墟化した安田講堂を歩いて回ってるんですが、そこで彼がすでに終わったものに憧れを抱いてやってきた「遅れた」男だということを暗示してると思うのです。これは学生運動がすでに伝説と化した時代の話なのね。
もはやあの輝きも熱も失われていくばかりなのに、あの行動に感化された人間はムダに伝説の続きを作ろうとしてたのかもしれない。ろくな理論武装も持たずに、政治も思想も超えて、ごく個人的な理想のためにうっとりと「闘争」という言葉が使われた例は連合赤軍に至るまで、これだけじゃなかったでしょう。
梅山も沢田も、そうした”喪失後”の若者の一人だったのかもしれなくて、そういった者同士がつながるのはすでに理論や目的ではなく、もっと感覚的な音楽や読書や…いわゆる感性、ってやつだったのかもしれない。そういう感覚は、なんかちょっとわかる。


新聞社の上司の中平さんもすごくよかった。いそうだ、ああいう人。ステキな上司だ。オトナでね。
ジャーナルの上司役にはあがた森魚さんも出てた。懐かしいなw
それと、最初と最後に出てくるタモツ。
彼が凄く好かった。沢田よりよっぽど修羅場をくぐってきてるのに、優しくてまっすぐだ。
彼の最後の言葉はさりげないけど、全てを越える人としての愛情がこもっていた。
「生きてりゃいいよ」
これには泣けた。
革命も闘争も乗り越えて、それは燦然と輝く言葉だ。
沢田はこのひと言(自分を慰めるための優しいひと言)で、自分の本当の挫折を自覚したのだと思う。その悔恨の涙がせつないこと。


一番印象的だったのは忽那汐里です。とても魅力的だった。不思議な存在感。
彼女が演じた倉田眞子という少女モデルは保倉幸恵という実在の人なのです。
保倉さんは22歳の若さで死んでしまった、と劇中でも語られていましたが、実際のその死はあまりにも凄惨な自死であるわけで…
そのことを思うと、ひときわ彼女の悲しさや透明感、潔癖さのようなものが浮かび上がり、胸に響きます。
可哀相で痛ましい、きれいな女の子。存在自体がすでに物語なのです。
「私はきちんと泣ける男の人が好き」という彼女の台詞は、ラストシーンの沢田の涙に収斂される。
ここに出てくる女たちはみな、菩薩のよう。男たちより一回りくらい大きいです。
諦めている分、彼女たちは大きいのかもしれない。


予告編↓ 安田講堂とゲバ文字にグッとくる。でも、このトレーラーで受ける印象と、本編はかなり違う。
主題歌はボブ・ディランのカバーだけど、ヨーキンのボーカルが凄く(・∀・)イイ!!