祈りを


前回のエントリのトーンとはちょっと違うのですが(汗)
元気を出さなくては、と思ってもなかなか……何かをブログに書けるような気がしません。
なんというか、言葉が出ない。
私はいつも思考を言語化して言葉(文章)でモノを考える傾向があるのですが、なんだか震災以来ずっと、頭の中が「おとなしく」て、何も考えられていない気がしてます。
自分の思いを言語化できない。ゆえに自分が何を考えているか自分でよくわからない。
感覚(感情?)しか浮かんでない感じなのです。現象に対して脊髄反射してるだけ、みたいな。
自己対話によって自己確認をする私にとって、これは自分がどこにいっちゃったのかわからない状態でもあります。
こんなことはまずなかったことなので、すごく不安です。


地震から原発事故まで、(主に原発関係で)当事者としての恐怖とか不安とか生活の立て方とかいろいろ気をとられてきて、それだけで疲れきってしまっていたのですが、このところようやく落ち着いてきた(状況は決して良くなっちゃいないのだけど、慣れただけ?)感があり、今更ながら震災地の状況に”気持ちを添わせて”注目できるようになりました。
そうしたらいきなり精神的に打撃を受けて体調まで崩してしまいました。
これまでも災害の悲惨さや被災者の過酷な状況をニュースで見聞きしていたけれど、そこにいる一人一人の被災者の方たちの顔や名前のある体験を、その想いを、きちんと見てはいなかったんですよね。その余裕がこちらになかった。
でも今、新聞や雑誌を通して被災者の体験談や亡くなってしまった人たちに関する話を読むようになって初めて、これまでにない強い衝撃を受けています。
こんなにも深い悲しみに溢れた世の中で、いったい、どうしろと???
無力感というか、絶望感というか…


識者の中には、「悲しみは乗り越えられる」、「前を向いて立ち上がっていかなければ」と説く人もいます。
あの戦争でも立ち直ったのだから、日本人は頑張れるんだよ、日本人の潜在能力は凄いんだよ、と。
TVをつければ力強い言葉が溢れてる。
勇気を、元気を、夢を、希望を、助け合いを!
そう言うしかない、ってのはわかってる。
でも、悲しみは現実に溢れてる。
それを想像したら、力強い励ましの言葉ももしかして残酷なのではないかと思える。
きっと、個々人の悲しみは誰の力も届かないところで静かに静かに溢れ続ける。それは誰にも理解できるわけない。
そう思うと、また言葉が出なくなる。そもそも言葉が必要なのかどうかもわからない。
私にできるのは、祈ることだけかもしれない。


この悲劇に対して「神などいない」という人がいるけれど、私はそうは思っていません。
神はいます。でも、神はこの世のことには関わらない。遠くから、じっと見ているだけです。
神がいるのは向こうの世界。だからこそ、祈るのです。
裏返して考えれば、この現世に神がいないことこそが、最大の救いなのかもしれません。
私にとっての救いも、たぶんそういうことです。
神なき現世は苦しく辛いものだけれど、救いがないわけではない。
この世での救いは人間の力で求めていくべきものなのでしょう。人間が神から賜った英知と、努力で。
だからめそめそしていては、やっぱりどうにもならない。
悲しみを乗り越えて立ち上がることは必要だし、大勢の人たちの励ましもきっととても大事なのです。
人間同士が助け合うことが、一番の力になるのでしょう。
今はとてもキツイけれど、深い悲しみの存在を忘れず、祈りを忘れず、同時に前を向いて立ち上がってゆくことしかないのかもしれません。


……と、理屈ではわかっていますがやっぱりつらいですね。つらすぎる。
油断するとすぐ涙が出てきます。
被災者でもないのに泣き言を言っては情けないけれど。
本当につらい人はきっと泣いてるヒマもないのかもしれない。
私はヒマだから泣くのだろうな。いかんな。


追記:
大好きで尊敬する人が、こういった時にどんなコメントを出してくれるのかというのは気になるところです。
私の敬愛する橘玲さんが先日、震災後にやっとブログでコメントを書いてくれたのですが、その言葉があまりにも優しく、知的で、橘さんの純粋な部分が滲み出ているものだったので、感激してますます好きになってしまいました。