台北2日目その1/瑞芳、金瓜石


さて、2日目。
朝食はいつもと同じもの(パンorパンケーキ、ハムソーセージ類、卵、果物、ヨーグルト、コーヒー)を食べないと落ち着かないというタイプなので、毎朝ホテルのビュッフェで済ませました。
ここのビュッフェは和・洋・中揃っています。毎日ほぼ同じメニューが出ます。



今日は台北駅から自強号に乗って瑞芳(ルイファン)まで行き、そこからバスで金瓜石→九[イ分]と回る予定。
金瓜石に行くのは私の希望でした。個人的事情(ネタのために、ですね)で、どうしても観ておきたかったのです。
それにここは映画「悲情城市」の舞台になった場所でもあるんで、そのロケ地を巡ってみたかったってのもあります。
悲情城市」は、私が初めて偉仔に出会い、好きになって、やがて明星迷になるきっかけとなった作品であり、かつ、私が初めて「台湾」の歴史に興味を持つことになった作品でもあります。
そんな、ある意味原点ともいうべきこの映画のロケ地だった場所に行ってみたい…今の私がそこに立って、はたして何が見えるのか?ってのに興味がありました。



台北から瑞芳までの切符。指定券になってます。子どもは半額。
ネットで座席の予約もできます。
予約してから48時間以内に窓口に取りに行かなければ無効になりますので要注意。実は私はこれをやって無効になりました(汗)すぐに替わりの座席を取ってくれましたけどね。驚くほど空いていたので事前予約の必要もなかったです。



車内の様子。
特急ですと40分かからず到着します。



瑞芳の駅前広場。
日本語を話す親切なボランティアの案内係の人がいて、バスの乗り場などを丁寧に教えてくれました。
乗り場に表示などが一切無いので教えてもらわないとわかりませんでした。



駅前の看板。
この「美食街」は前の写真の路地奥つきあたりにあるのですが、ここがもーーシンドイ場所で(爆)
屋台が集まっているのですが、めっちゃディープなところでした。あちこちに贓物がぶらさがってるような。
あまりのキツさに足がすくむ。ただでさえ綺麗好きなボクちゃんは思わず泣いちゃいました(汗)
何かを食べるという段階までたどり着けるわけもなく、見た目と臭いに圧倒されて近寄ることさえできないままリタイア。
脆弱な日本人だなぁ。でも、ある意味いい体験でした。



金瓜石行きのバスの中。
山道をすごい速度で走るので運転が怖い!…という評判を聞いていたけれど、私たちが乗ったバスの運転手さんはとても丁寧な運転をしてくれて、安心して乗っていられました。
山道を登ったところで眺望が開けます。
海が見える!



終点の金瓜石で降りて、黄金博物館区に入っていきます。
無料期間で、すべての施設にタダで入れました。



金瓜石は戦前に日本の鉱業会社が入って金を採掘していた場所なので、日本式家屋があちこちに残っています。
ここは代表的な当時の日本家屋。中を見学することもできます。



お土産屋さん。
記念にちょっとだけ砂金が混じってる石を買いました。



空気がきれいで清々しい。
とにかく台北の街中の空気が悪すぎて1日でグロッキーになっていたので、ここではホントに癒されました。
山も美しい。



構内の喫茶店で一休み。
コーヒーの値段は90NT(だいたい250円くらい)
ケーキの味はミスドっぽい。


博物館区の中にはいろんな施設や遺構が点在してます。
ぶらぶらと歩いてそれらを観ながら、「悲情城市」ロケ地にいってみました。



こんなふうに案内が出ています。
寛美が働いていた病院のあった場所は印象的な石段があるのですぐわかります。今は建物は無く、広場(駐車場?)になってる。
文清さんの家だった場所(八角堂といわれてるところ)を探したのですが、どこにあるのかよくわからなくて…
それもそのはず、もう建物は存在していないのでした。
ここ↓


なんか……がっかりしてしまった。
帰ってからネットで調べたら、台風で全壊してそのまま放置されているようです(それもかなり前に)。
調べてから行くんだった。情弱かよ>アタシ
それにしても、せっかく道案内まであるのにナニコレ?な荒れかたです。
せめてゴミみたいな廃材くらいは片付けてほしいなぁ。
こうして遠方からロケ地を訪ねに来るくらいあの映画が好きな観光客だって少なからずいるでしょうに、なんでこんな扱いなんだろう。
あの映画って台湾の誇りじゃないんかい?ブームが去れば終わりか?
それならいっそ案内看板なんて外しちゃえばいいのに。
こんな見せ方されると私の大好きだった文清さんのキラキラした瞳や優しい笑顔まで幻のように消えてしまうような気がするでないの。
文清さんは台湾人だけど、戦前は日本人でもあったわけで。文清さんを失ってしまった一端は日本のせいでもある、という思いは私の中にずっとあるんですよ。日本が戦争に負けなかったら今頃彼はどうしていたろう…なんてことを思ってしまったり。
彼のような存在への追悼は、外省人にも日本人にも立場上、上手くできないのです。台湾人の手によってちゃんとしてあげて欲しいです。
なんだか、いろんな意味でセツなくなりました。



この路地の先にロケ地がある、ということを伝える看板。
こちらもヨレヨレで朽ちかけてました。
続きます