「1Q84」

1Q84 BOOK 1

1Q84 BOOK 1

1Q84 BOOK 2

1Q84 BOOK 2

1Q84 BOOK 3

1Q84 BOOK 3

  • 作者:村上 春樹
  • 発売日: 2010/04/16
  • メディア: ハードカバー


3巻一気に読了しました。
重量級。でも、それを感じさせない。時間を忘れて没頭してしまう物語です。


村上春樹に関しては、近年は翻訳本とエッセイしか読んでいません(去年読んだティム・オブライエンの「世界のすべての七月」は私の年間ベスト3に入ってる)。
基本的にこの人の構成や文章のリズム感みたいなものはすごく好きなのに、オリジナルの物語となると一転してその手触りや風景、登場人物の心の動きや行動、言動などに拒否感があって(ぶっちゃけ苦手で)入っていきにくいのです。
共感がまるで沸かない。
ゆえに、海外文学の翻訳を手がけているものがあると読みたくなるのに、オリジナルの小説は毛嫌いしていました。


でも今回の作品は社会現象とまで言われている。出版不況を救った!とまで言われる大ベストセラーですよ。
それはもう四の五の言わずに読まなきゃでしょう本を読む人間であるのなら(そして曲がりなりにも何か書こうとしている人間であるのなら)って感じですのでね、苦手を乗り越えながら頑張ってみました。
結論から言えば、これだけの長さの小説を、絶えず読者の興味を引っ張りながら、世界観をブレさすことなくダレずに組み立ててゆく力は本当に凄い!文章と構成は完璧。うっとりするほどなめらかに物語の世界に連れて行かれてしまう。
けれど、とりあげられている物語はやはり私のシュミ(というか、「感覚」といった方が近いかな)には合いませんでした。読んで幸せな気分にはならない。感情移入もできない。話のもっていき方はうまいので引きずられてゆくけれど、そこにトキメキを感じない。
それでも続きが読みたくなるのは、謎解き的なものやサスペンスの要素があるからです。でもそれは「トキメキ」じゃない。
どうも私はこの人の性的な部分(もっと広げて男女の関係性というか)の捉え方に違和感を感じるようなのです。このダメージがかなり大きい。彼の描くセックスは総じて(私にとっては)エロでなく、恋でもなく、萌えでもなく、言ってみれば「グロ」であるのです。正直、読んでて落ち込んでくる。
小説世界云々という以前の話で、生理的に無理なのね。これはもうどうしょうもない。
ものすごい巧い作家だと思ってますけどね、それとこれとは別、っていうか。
それでも続きはすごく楽しみです。早く4巻が読みたい!


今のところ、主人公の二人にはほとんど興味がないので(3巻の結末読んでさらに興味がなくなった)、4巻ではふかえりや戎野センセイのその後が読めるのが楽しみです。
私、青豆がどうしても好きになれないの。なんかダメだ、あの人は。
天吾はどうして青豆なんだろうか?と思うよ。境遇が似ているというのは決して男女を結び付けないと私なんかは思うのだけど、そうでもないのかな。
天吾はあんな境遇で育ちながらも純粋培養っぽいところがあるんで、青豆の強引な「念」みたいなものに取り込まれているような気もするなぁ。
登場人物の女子陣、あゆみがとても魅力的でした。安達クミもなかなか良かった 。もちろんふかえりもいい。でもやっぱ青豆はダメなんですよねぇ。


登場人物中、一番気になったのはNHKの集金人だった天吾父です(そういえば名前はなんだったろう)。
NHKの集金をして廻るくだりが忘れられない。情景が最も鮮やかに再現されてるエピソードです。これだけで見事な物語になってました。
この部分に関してだけなんですが、かなり寺山修司っぽい色合いの世界だったりもするの。だから好きなのかも。
意識のない病床にいてもなお集金のドアを叩き続ける父。
棺桶の中にNHKの制服を着たまま横たわっている父。
うーん、まさに寺山テイスト。
”永遠に終わることないかくれんぼの鬼が「もういいかい」を言い続けてるうちに老人になっちゃった”的な雰囲気にドキドキします。
こんな風に春樹が「地獄篇」(寺山の長編叙事詩)みたいな世界を書くなんて、かなり驚きで、ちょっと嬉しくもありました。あ、これならアタシでもイケる、と。
なんだかんだこの小説中で一番印象的で、このヒトが主人公なんじゃないか?とさえ思えたのはこの徹頭徹尾の集金人です。


あ、それと。
こないだ書店の平積みのところになぜか(もうとっくに絶版になっているであろう岩波文庫の)チェーホフの「サハリン島」が置いてあって、わけがわからず不安な気持ちになったのですが(←自分の知らないところで世の中が思いもかけない方に動いてるのではないかと思って)、これって「1Q84」に出てきていたのね。納得。
ヤナーチェクの「シンフォニエッタ」もそうだけど、春樹の巧さってのはこういう小物遣い(?)にも良く現れていますね。作中に小物扱いで出てくる音楽や本などのディテールから小説世界の色合いを感じさせるというのは一般的な手法ではあるけれど、そのチョイスが独特。

それにしても、遠い昔の放課後にあったハタから見たら些細な出来事が、恋となって20年間もずっと心に残り続けるなんてこと、あるのだろうか?
「あるのだろうか?」なんて書きながら私はこれ確実にあると思っているんですけどね。
だって恋って思い込みだし。
実際、私もちょっと似た経験があるのです。
一度も話をしたこともないけれど大好きだった人と、確実に「(心が)結ばれた」「つながった」と思う不思議な瞬間があった。そしてその思いを今も忘れてない。
しかも、そうなる直前に、私はきっとそうなると「直感でしっかりと感じた」のです。どう考えても常識ではありえないことなのに、私にはその瞬間が「来る」とわかっていた。
まさにミラクルとしか言いようがない。そのときばかりは空に月が二つあってもおかしくなかった。
他人に話したらきっと鼻で笑われるだろうけど、私は知ってる。これは妄想なんかじゃなく確かなことだというのを。世の中にはそういうこともあるのだということを。
だから青豆と天吾のことも、スッと理解はできました。そういう瞬間があり、恋となりうるということはね。
でもそれが双方とも同じ濃さで20年間も(しかもその間、一度も会いもせず)その想いを抱き続けるってのはたいがいだなぁと、信じがたい気がしちゃう。
だからこそ、青豆と天吾は「特別」なのだし、その特別さはどこから(どんな時空のゆがみから?)生まれてどんな理由があるのか、というのも気になるわけですね。
すべては次巻を待たねばね。
こういう物語が熱狂的に読まれてるのって不思議。みんな、何を求めてこれを読むのだろう?


追記です。
天吾と青豆の「恋」ですが、作者はこれを「愛」として機能させようとしているんだったと気づきました。それがあるからこそ異常な世界を生き抜くことができるのだというふうに。
そう気づいた途端に、またもや作者との距離が遠くなる。
言葉の概念の相違にすぎないだろうけれど、これが恋であるか愛であるかでは雲泥の差ですからね。こんなのを「愛」だとまとめてしまうようなことはまさかないだろうと思うけれど。
愛とはなんぞや?
その答えも次巻でわかるのかもしれません。


そもそも物語の中で文字通りに出てくる以上にこの二人の邂逅が意味を持つという深読みを私はしたくないんですよね。この小説をものすごいメタファーの連続みたいに読んでる人いるけど(そしてそう読めない人を無教養だのバカだのきめつけたりするようですが)どうかと思う。何の宗教か?って感じ。ちなみにこれも言葉の認識の相違かもしれないけれど「宗教」と「信仰」も私にとっては真逆のものです。「愛」と「恋」のように。
そんなことをも含めて作者は何かを表現しようとしてるのかもしれない。自らがカルトになることによって物語がどう解釈されてゆくのかを見届ける壮大な実験だったりしてw
文学におけるカルトとは、作者のカリスマが作品そのものを超えてしまっているがゆえに、作品(言葉、だね)がある「真理」のメタファーと捉えられ、多くの意味が読者により付加されて肥大してゆくことのように思うので。
すべては教祖ムラカミの次の言葉次第でしょうか。