「ヴィヨンの妻 桜桃とタンポポ」


映画館で予告編を見たときから「これは絶対見たい」と思っていた作品。
予想通り、素晴らしかったです。映画という方法でなければ出せない映像の美しさをしっかり感じさせてくれます。
映画ってもんはTVドラマとは決定的に違うんだということを、こういうリキ入った作品を観るとガツンと納得させられる。(そうでない作品がとても多いので)


ヴィヨンの妻」とありますが、同名小説そのままの映像化ではなく、「ヴィヨンの妻」「きりぎりす」「桜桃」などの太宰の短編のエッセンスを組み合わせて、ヒロイン役の松さんに合わせて作ったオリジナル作品だそうです。
最初から松さんを想定して作っているせいか、とにかく松さんの素晴らしさが溢れています。実に多角的に。
彼女のための物語を作り、その中で彼女を思うままに動かしたい!という映画監督の尋常ならざる(物語の)ヒロインに対する「萌え」に深く共感。
映画を作るモチベーションとして、こんなにわかりやすく納得できるものはないわね。その情熱が全てに渡ってよい相乗効果を生んでいる気がしました。松さんの演技もその想いにがっつり応えている。
美術さんも照明さんも共演者も実にプロフェッショナルでいい仕事ぶりでした。
戦後すぐの時代を再現したセットや小道具はとても見事でステキすぎます。
背景だけでなく、音や光、人物の着ているものや化粧の仕方、話しかた、所作…そういうこまごましたものも齟齬なく溶け合っている。
セットだけ時代に合わせても、そこで動く人間が完全に平成の人間だという作品も多いので、こういう調和が取れていると安心して物語世界に入ってゆけます。
とはいえ、私自身が生きてた時代じゃないので、当時を実際に知ってる人が見たらどう思うかわかりませんけれど。それでもかなり合格点に近い再現ができてるような気がしました。


以下、私の思いこみレビュー。
最初、副題から「桜桃は甘く傷つきやすい男を、タンポポは強く明るい女を譬えている」という先入観がありました。
ダメ亭主としっかり女房、という図式を想定しながら観ていたのです。
なので、話が進むごとにどんどん違和感がつのりました。
これはそんな単純な夫婦の話じゃないんですよ。
一方的にダメ亭主に呆れてそこにくっついてる女房を哀れむ、なんてのはまるで本質とは違う方向なのです。
そこに気付くとぐっと物語の核心に入り込める気がします。
この夫婦、今では「共依存」という言葉で説明できる関係なんだろうと思いますが、要するに「割れ鍋に綴じ蓋」なのね。
お互いがお互いを必要としながら存在してるんです。そしてそれをなんだかんだ言って(亭主はどうかわからないけれど、佐知の方は)心地よく感じてるし、決して否定的にはとらえていない。
だから佐知は飄々としていられるのです。
それが良く現れているシーンが、深夜、椿屋の夫婦が家に押しかけてきて事の顛末を話した際に、思わず笑ってしまう佐知の対応なのです。
あそこで「え?」と思う。
先入観のフィルターがはがれてゆく最初のシーンがここでした。


椿屋で働き始めた佐知はどんどんいきいきと輝き始める。自分の魅力に気づいてゆく。
ここからの佐知は絶好調です。
佐知には言い寄ってくる男がたくさんいる。でも、他の男では佐知の心を捕まえる事はできない。そのことがさらに佐知を輝かせる。
佐知は他者からモテていること以上に、魅力的な自分は亭主を動揺させうる、という新鮮な驚きを得たことが嬉しかったんだと思います。
佐知って人は最初から条件で男を好きになったりしないんですよね。「生活が安定しているから」、「優しくしてくれるから」、「自分を欲しいと言ってくれるから」なんてのは彼女にとってほとんど意味が無い。
佐知は「選ばれる女」ではなく「選ぶ女」である自分に誇りを持っているんですよ。
心底、大谷にしか意識が向いていない。あらゆる感情が、亭主を中心に動く。
だから佐知は彼らを巧みに「利用」したりもする。亭主との関係による心理的なバランスをとる道具として。ささやかな挑発だったり仕返しだったり。
純朴な工員(ツマブキ)には日々一緒に帰る、ということで亭主をヤキモキさせているし(そのバランスが崩れそうになって慌てたり、というアクシデントもあって佐知は後悔したりもする)、かつての想い人である弁護士(堤さん)に取った行動も計算づくだ。
弁護士に会いに行くとき、佐知はパンパンから口紅を買う。あの時彼女はほんのひととき精神的娼婦になったのだろう。自分を欲しがる下品な男に身を売る下品な自分、になるために、「金で買える口紅」は必需品だったのか。
佐知のことだから「私は悪くない」というエクスキューズをああして作ったのかもしれない。
事の後、唇の紅をグイと拭い、買ったばかりの口紅を、道端に咲いているたんぽぽの脇に置いて去る時、佐知はまた「一輪のタンポポの誠実」を持つ女となったのでしょう。
佐知には一本の曲がり無い純情が背筋を通っている。
亭主に対する誠実。それだけは常に彼女の心にある。揺るぎなく。だから彼女はいつだって堂々としていられる。


人非人でもいいじゃないの。生きてさえすればいいのよ」という佐知のセリフを最後に、この物語は終わります。
この言葉は明るく前向きなのに、どこかものすごく投げやりで自分勝手な匂いがする。
それは佐知が言うから、なんですよね。
このセリフ自体に意味はない。
これを言う主体がどんな女か?ということで、言葉の陰影は変わってくる。
そこでふと思い出すのが、万引きで捕まった佐知が警官に言っていた自己釈明の言葉なのです。
「私は悪くない」という、その破綻した自意識。全てを自分に都合よく考えて納得し肯定する、ある意味「前向き」なずうずうしさ。
佐知はいつも「自分が正しい」人なのです。
真理は常に、我が身のうちにあると信じる者。
その意味合いにおいても、実はこの夫婦は「似たもの同士」だったんだなぁというのがわかるんですね。世の中の尺度はあてはまらない。
こうして、最後のセリフで佐知という人の本質を一瞬、くっきりと浮かび上がらせる仕組みなのね。
うまいなぁ、と思いました。
どうとでもとれるセリフに、彼女であるゆえのニュアンスを含ませるまでに徹底した人物描写をしているんです。


とにかく見どころは松さんなのですが、他の出演者も皆さんいい雰囲気でした。
浅野くんは実に手堅い演技。太宰本人を髣髴させる小説家。ダメすぎる人間であり、もうどうにもこうにも軌道修正できないくらいめちゃくちゃなのになぜか人を惹きつける魅力があるつかみどころの無い男を、媚びすぎてもいないし突き放しすぎてもいないすごくいい按配で演じておりました。
椿屋の夫婦(室井さんと伊武さん)はヤリ手ジジババみたいなビジュアルとは裏腹にどこまでも優しい夫婦。
戦後のどさくさにそぐわないような気がするほどにいい人たちで、心温まりました。
子役の坊やの可愛さは言わずもがな。泣きそうなくらい可愛らしい子です。ただ、物語の中に小さな男の子が出てくるとドキッとするんですよね「この子、可哀想なことになりはしないだろうか」「なんかあったらどうしよう」ってので気が気じゃなくなってしまうんですよ。なので、子どもが出てくる作品はどうしてもニガテ。とにかく小さな男の子、というのがダメ。見るだけで涙が出てくるから。
ヒロスエはいまひとつセリフの読み方に難があるなぁといつも思う。ビジュアルはあの時代のある種の女の人をよく再現できてて良かったんですけどね。セリフ言うと「う〜ん」って感じ。素晴しくフォトジェニックなんだけどなぁ。
ツマブキくんはもうちょっと役柄が濃かったらいいのに、と思いました。ライトなんですよね、佐知へのアプローチが。もう一息、感情が絡み合ってくると良かったかも。(原作では彼とは一線を越えてしまうわけですし)
堤さんは嫌な男をさらっと上手く演じておりました。「どうしてこんなに君が欲しいのだろう」ってさw マヌケなセリフ。バカな男だねー。ちょろいよね。
でも、こういうキャラクターは物語の中で動かしてみたい魅力があります。