最終決戦終了

ホグワーツより戻りました。
長い旅を終え、戻ってきたら季節も政権も変わっておりました(って、フト気づいたら…な書き方しましたけど、選挙はちゃんと行きましたし選挙特番もガッツリ見ましたよ)
今年の夏ももう終わりですね。美しい秋の始まりです。
ついでなのでブログのテンプレも変えてみました。
これ牝鹿…ですよね?

牝鹿!

涙。 ← ポタ最終巻を読んだ人だけわかる


ああ…それにしても。
とうとう終わってしまいました。
素晴しい最終巻でした。

が!

長いわりになんだかすごく「端折られてる感」があったなぁ。
その「もうちょっとそこのところ詳しく!」ってのが多々あるところがこの物語の(良いとも悪いともとれる)特徴なのですが、最終巻はさらにその傾向が強くなってました。
内容がとにかく濃すぎる。収まりきらない。どう考えてもこの文字数で終わらせてしまうには惜しいのよね。
33章だけでも上下巻の物語ができちゃうし(ってのはかなり偏ったヲタのワガママですけど(汗)でもすごく読みたい!)、この巻で初めて出てくる「死の秘宝」の話だって、今まで説明がなかった分、これだけでかなり長大な物語ができそう。
敵側の死喰人の動揺とか悩みも描かれていなさ過ぎるし、ハリーとジニーの間の情動もなんだか薄いし、ドラコももうちょっと活躍させて欲しいし…読み足りないと感じてしまう部分がいっぱい。
ハリポタが2次創作者の意欲を掻き立てるのは、こうした「書かれていないけれど、確かにそこにあったはずの物語(読者の妄想ではなく、ですよ。ちゃんと伏線や、よすがになる描写がある部分に関してのこと)」があまりにも多いからだという気がします。
ローリング女史のことだからもしやそこまで計算づくで?!と思えたりもしますが、んなわけないっすね。そうだったらスゴすぎ(笑)


登場人物は誰一人として(ダンブルドアでさえも)完璧な存在として描かれておりません。
そのことが胸にキました。完璧ではないからこそ説得力があるのだと、しみじみ感じ入ります。
ローリング女史は人物を描くときに振り幅を大きくします。わかりやすく大胆に(たぶんそれはこれが児童文学だからでしょう)。
そこが魅力でもあります。
人間には誰にも弱い部分がある。けれども、それを乗り越えて強く生きることができるのもまた人間の良さなのだということがわかります。
挫折してもやり直せる。誤った行動の後にも道はある、と。
いや、この物語に出てくるのは人間じゃなくて魔法使いだけれど。
魔法使いだからといって、そんなところにまで魔法は使えない。生き方を決めるのは魔法ではないの。
最終巻があったおかげで、私は初めてダンブルドアのことを愛しく、親しみ深く感じることができました。
だって「非の打ち所がない偉大なる魔法使い」が、実のところ失敗と挫折を抱え悩みながら生きてきた人間味溢れる先輩だったと判明したのだから。
ダンブルドアの弱さの底には若き日の恋があったからなんですよね。それを想うと更に切ない。
でも、このことは原作には書いてなくて(でもやはり伏線はある)、あとでローリング女史がインタビューで言っていたことです。
このことを物語の中で描写していてくれたらもっと感慨深かったろうなぁ。
ただでさえバチカンあたりに睨まれているし、表現自体も気を遣うだろうからやっぱり難しいかな?あえて書かない、ということがいいのかもしれませんね。


女史の書き方でもう一つ特徴的なのは、人の死をとてもあっけなく…けれど果てしない「喪失」として描くところです。
死を言葉によって美化しない。誰もヒロイックな死に方をしない。
失われた命はもはや戻らない、というのをただ淡々と示すだけ。そこがなんだかしみじみと胸を打ちます。
それにしても簡単にスルーしすぎと感じた部分もありました。「死体が見えた」みたいな表現だけで終わってる人とかね。
その人の重要度からしても、死んでゆく瞬間のことを結局何も知らされずに終わるっていうのはどうも不本意な気がしないでもない。
でも、よく考えると実際の戦場で命をなくす仲間を見るときって、そのくらいの距離感なのかもしれないわけでね…敵の攻撃が矢のように降る中で、その死をじっくり考えている隙なんかありゃしないんですから。それを考えるのは戦いを終えた後の話であって。


最終巻の底辺を流れるテーマの一つに、無償であり永遠の「愛」の存在が大きく取り上げられています。
表面的に見ると、その愛は報われることなく終わったと思われがちですが、それは大きな誤解なんじゃないかと感じています。
その「愛」には感情的に「妄執」とか「執着」といったストーカーっぽい雰囲気がありますが、その行動はどこまでも徹底した自己犠牲で貫かれています。
「妄執(=欲望)であることの弱さ」を、「愛(=自己犠牲)の強さ」に変えています。
しかもこの命をかけた想いをささげる相手には最後まで誤解されたままなのです。
永遠の無理解をわかった上で、忠誠を尽くす。
これは数ある人の世の苦しみの中でも最上級に苦しいことですよ。
憎まれ疎まれ疑われ蛇蝎の如く嫌われ、それでも影でその人を想い、守り続けてゆく。
こんな地獄の責め苦に耐え続けていられるのは、やはり自発的な愛の力ゆえでありましょう。
この巻の33章と、33章を読んだ後でもう一度振り返って読む32章は、涙なくして読めません。


そして最終章。19年後の物語の中に、闘いの時代のなごりが夢のように漂っています。
名前はこの世で一番短い物語
とはよく使われる言い回しですが、最終章ではそれをしみじみと感じ入りました。
愛の記憶は次代の子どもたちの名前の中に刻まれています。その名の下に、万感の想いが込められている。
長い長い物語の最後に残された、短い「名前」。
感無量です。
てか、これって完全にファンサーヴィスっていうか(笑)、ファンフィクっぽいんですごく嬉しいです。
こういうノリがあるところがまたローリング女史の素晴しいところ。
余談ですけど、この章の始まりの出だしが
「その年の秋は、突然やってきた。9月1日の朝はリンゴのようにサクッとして黄金色だった。」(終章548ページ)
ってんですけど、それを読んだのがまさに9月1日だったのです!
なんというミラクル!
365分の1の確率で、私はこの日にここにたどり着いた。
やっぱりポタには魔法が秘められてるのかもしんない。


いろいろ書きたいことはありますが、ネタバレしてしまうのもどうかと思うので、曖昧な感想になってしまいました。
最終巻を読んだ後は、また1巻から読むのが楽しめそうです。
かつて書かれた伏線を探しに行く楽しみができましたからね。
まだポタを知らない方、(まずはじめは3巻からでもいいので)ぜひ読んでみてくだされ。
いまさらアタシが言わなくてもですが、もうね、本当ーーに面白いですから。
これだけ世界中の人たちが熱狂して迎えたものが、単なるマーケティングのあり方による現象なんてものであるはずがないんです。(ポタを否定する人はすぐに商業的な部分をとりあげてなんのかのと言いますが、本質はそんなところとはまるで別に存在します)
区分はたぶんファンタジーだったり児童書だったりするのでしょうが、女史の架空世界の構築力と人物描写力の精緻さは大人をこそとりこにするはずです。
実に「豊かな物語」でした。ああ、本当に!
天才ストーリーテラーJ・K・ローリング女史に心からの賞賛と感謝を。