「幻影の書」ポール・オースター

幻影の書

幻影の書


オースターは私の大好きな作家です。
が、ここんとこちょっとオースターを読みたいモードじゃなく。半年前に出た新刊を、やっと今頃読みました。
読んでみたら「やっぱり私の心の友はアナタしかいない!」くらいの偏愛が戻ってきました。響き方がもう全然違います。
その言葉もものの捉え方も感じ方も、腑に落ちるのです。体液に馴染むというか、とても安らぐ。
オースターの作品に出てくる登場人物は誰もが饒舌で内省的です。ぎっしりと、言葉をもっている。
饒舌なのは、けれど自己に対してのみ。ほとんどはモノローグ。モノローグの堆積の中に人生がある。
私は自分で自分をまともじゃないと思う時がしばしばあるけれど、オースターの書くものを読むと、自分ばかりを変人だと思わずに済むんですよね。「ああ、同類がいる」とホッとする。


この小説の中には4人の「物語を作る人」が出てきます。
・誰にも見せない映画を作るかつての映画スター(自分が死んだら全てのフィルムを燃すよう遺言しており、それは実行された)
・失意と絶望のどん底から一つの作品を書くことで息を吹き返した男。
・精魂込めて作り上げた作品を失うと同時に、自らも命を絶った女。
・愛する女性の命を救うために、自分の書いた物語を燃やした小説家。
物語を作るという行為は形はどうあれ生きることそのものだというのを、4者4様の人生を辿ることでオースターは示してゆきます。


作中作も幾つか出てきます。映画の形で。
中でも大きな位置をしめる作品「マーティン・フロストの内的生活(The Inner Life Of Martin Frost)」は、私が以前デビシュに夢中だった頃、さんざん大騒ぎしていたものです。
この作品を、オースターは自ら映画化しました。(結局日本未公開でしたねぇ。ミニシアター公開さえナシだなんて予想外でしたよ。小説中の「マーティン・フロスト〜」は、映画の予告やメイキングから判断する限りにおいては、見事なユニゾンぶりを感じさせました。双方の作者が同じなんだからさもありなんですが、小説に書かれた世界が映像的にブレなく再現される例はあまりないので、やはりそれはちょっとした驚きです)
この物語の中の作家は、小説を書くという行為(=現実)により、幻の女(=幻影)を現出させます。
幻影を愛し、そこに実体を見出してゆく小説家。幻影が現実を侵食し始めます。
やがて小説の執筆が終わりに近づくと女は弱ってゆき、小説の完成とともに息絶えてしまう。
狼狽した小説家は書き上げた小説を次々に暖炉に放り込むと、女は息を吹き返す。


作家にとって、この「女」は何者だろう?
未完成の物語の中でしか、女は生き続けられないのだろうか?
現実は、時に虚構に完敗するということか?
答えはわからなくとも、ここで描かれるエピソードには一つの真実があるように思えます。
「物語は書き終えた時点で現実(書いている過程で入り込んでいる虚構における現実)から離れる」ということです。
書き終えたとき、世界は終わる。
モノを書く人間の目的は作品を仕上げることだという一般的な思い込みに、オースターは「NO」と言っている。NOというか…まぁ、そうじゃないことだってあるよ、と。
なぜモノを書くのか?は、書いている本人にしかわからない。
仕上がったら(物語が完結したら)、そこがENDなのだということだってある。
書いた物語を誰の目にも触れさせずに破棄する人間は、社会的には作家ではないけれど、本質的に「書きながら生きる人」ではないか?
物語を書く人ってのは職業とは関係なく属性として存在することをオースターは言っている気がします。


若い頃、物書きになりたがるのなんて自己顕示欲の塊だからだと思ってました。貪欲な自己主張の一つだと。
でも次第に、自分に自己顕示欲という欲が強いとは思えなくなってきた。あまりぴんと来ない。
私は何のためにモノを書いているのだろう?
「ため」なんてのは見当たらないようにも思える。
確かなのは、モノを書くのは、それを書きたいからだということだけ。手段ではなく、それ自体が目的なのです。
でも、それが言葉(他者との意思疎通が可能な手段の一つ)である限り、誰かにそれを読んで欲しいという気持ちはどこかにある。
発した言葉に着地地点があることで初めて言葉は言葉として存在することができる。行き場のない言葉は、言葉であるのかどうかさえ不確かだ。
「言葉は誰かに届く」
その暗黙の前提がなかったら?私はそれでもものを書くだろうか?


この小説の根底にはその仮定が置かれています。


「誰の目にも触れないまま失われてゆく物語」は、その作者にとって、また外側の世界にとってどんな意味を持つのか?


というね。
この同じ問いかけを、私は映画「タイタニック」に感じています。
タイタニック」でディカプリオが演じた「ジャック」という名の男は、乗船名簿にも載っていない、関係者もいない、影のような男です。
その男が死ぬ間際に他者の中に強烈な物語を残していった。一人の女の人生を変える究極の物語を。
女は確かにジャックを感じたであろうけれど、果たしてジャックなどという男は本当にいたのだろうか?
ジャックとは、一体誰だ?
それさえ偽名かもしれない誰も確認のしようが無いこの男には厳密に言えば「死」さえ与えられない。幻のような存在でしかない。
女がその手のぬくもりを忘れたら、海の泡のように儚く永遠に失われる。


私にとって「タイタニック」は名作です。これをハリウッドの恋愛映画ゆえにクダラナイと決め付けるヒトをちょっとバカにしていますw
これは名も無き存在として忽然と消える人間の物語なのです。しかもその意味合いにおいて秀逸です。
誰の目にも触れずに暖炉にくべられた原稿は、その存在さえ知られないわけですが、はたしてそれは「無」であるのか?というね。
野坂昭如原作の「蛍の墓」にも同じことを感じました。
駅の構内で汚泥のように失われた名のわからぬ一人の少年は誰なのか?
抱えた缶の中の骨の音の意味は、もはや誰も知らない。永遠に失われている。でもはたしてそれは「無」なのか?
これらにおける救いは
「神は全てご存知だ」
ということです。
だから私は神を信じるのです。私には信仰がありますが、本当の意味で神に何かを願ったことはありません。
私にとっての神は、知っていてくれる存在であるからで、それ以上でも以下でもないのです。
神を信じない人はこう思えばいいでしょう、「100年経ったらみんないない」と。
そんな言い草で全て乱暴に片付けてしまっても同じことかもしれません(私も時々、こんなふうに思います。どのみち幻みたいなもんだ、と)
話が逸れました。


そんなわけで、「あえて」タイタニックのジャック的な境地に行こうとする作家の複雑(再度確認しますが、これは「作った物語を誰の目にも触れさせずに破棄する」という行為のことですよ)を解きあかすオースターのこの小説には新鮮な驚きがありました。
驚いたけれど、私はもうずっとそんな境地があることを知っているのです。うすうす感じていました。それを「ロマンティック」だとも。
知っているけど曰く言い難かった思いを、この物語で見事に簡潔に解き明かしていただいた、という感じですかね。
おかげでスッキリしました。
ささやかなれどモノを書く人間として、今この物語を読めたことが、なによりの贈り物です。
オースターの小説にはかならず私がいる…みたいな嬉しい錯覚を引き起こすのも、オースターの意識が常に読者でなく作者(あらゆる物語を抱える無意識の創作者)に向かっているからなのかもしれません。
心の友は相変わらずものすごい頼りになる存在でした。
おススメです。