「愛を読むひと」追記

昨日書いた映画のレビューは私の狭い認識の範囲でしか語れてないなぁ、とフト気がつきました。
なんか、すごくズレてる。
経験不足の未熟な自分に引き寄せて考えてしまうものだから、物語の方向性を見誤るんだろうな。
無知の知を自覚し、オノレの狭い見識を脱する試みをもって向かい合わないと、文学を読んでも映画を観ても何も変わらない。バカな感想を抱くだけです。
映画レヴューを書いてるブロガーさんは要注意ですぜ。
自分の経験値以上のものってのはなかなか出せないもんで、経験値豊富な人から見たら、明らかにバカだったりするからね。えらそうなことは言わない方が無難です。


私の場合、この映画を観てまずショッキングだったこと(年齢が20も違う中年女と少年の恋)がずっと後まで大きく興味の幅を占めてしまい、登場人物の細かい行動や思考を自分勝手なフィルターを通して判断してしまったようです。
よく考えたら、ハンナは恋なんてしていなかったのかもしれない。ゆえに年齢によるひけめなどもなかったように思う。
いや、そもそも年齢コンプレックス(=中年女は若い男に引け目を持つもの、という固定観念)は私の側にあるだけで、実際ハンナにはそんな感覚は無くて、それゆえ15歳の少年と堂々と逢瀬を楽しめたのだろうな、とも思える。よく考えたらヨーロッパの女性は、年齢に関してアジア人女性ほどマイナス思考にならない、という傾向もあろうし(羨ましい)。
それ以上になにより彼女にはもっと切実に「欲しいもの」があった。それは朗読であり、物語であり、言葉です。
最初から彼女は愛人が欲しかったのではなく、朗読者が欲しかったのかもしれない。
加えて、もしその朗読者がハンナが朗読をさせる理由を知るに及べば、簡単にその人間を遠ざけてしまう(ガス室にさえ送ってしまう)ほどの過剰な(?)プライドをもっていそうだ。(もちろん、そうではないかもしれないし、本当のところはわからない)
でも、そこまでの、朗読者を欲するほどの深い知識欲がありながら、なぜ彼女は文盲であり続けたのだろう?しかも文盲であることは彼女にとって死とも引き換えにしうるほどの「恥」であり、人生が転落してゆく元凶だとわかっていながら、なぜそれまで自ら学習をしようとしなかったのか?
この物語の中には、わからないことが多い。
(小説版においては)モノローグしている主人公本人も、考えながら歩いてるようなものなので、最後まで明確な答えは聞かせてもらえない。
「それでも小説だったら何か結論をくれるはずだし」などという期待はココでは通用しないみたいです。