沖縄旅行(6)

安座真港から知念方面に車を走らせ、途中の海岸線にある名物カフェに立ち寄りました。
「浜辺の茶屋」です。




あいにくの引き潮。
浜辺で遊ぶ子供達の楽しそうな声が聞こえてきました。
お茶を飲んで一休みしたら、ここからは慰霊の旅、です。


沖縄に訪れたら、やはり1度は南部の戦争関連史跡を見ておくことが日本人の義務だと思います。
想像を絶する悲劇が、かつてこの地にあったのだということを、私たちは知らなくてはいけないし、子どもたちにも伝えなければなりません。「忘れないこと」「伝えてゆくこと」「同じことを決して繰り返さないこと」が後世の私たちに残されている課題ですからね。
戦争の傷跡を見るのはとてもつらいけれど、粛々と、祈念施設を訪ねました。



平和祈念公園です。
沖縄戦戦没者の方々の名前が刻まれた「平和の礎(いしじ)」、戦争資料館、平和祈念堂などが園内にあります。
とても広く、きれいに整備されています。
亡くなった方たちをないがしろにすまい、という心が、そこかしこに感じられました。


摩文仁の丘にある各県慰霊塔の、我が県の慰霊塔にもお参りしてきました。
海のない故郷から遠く離れ、青い海を見下ろすこの丘に散っていった同郷者たちのことを思うと、また別の哀しみも覚えます。


摩文仁の丘からまたしばらく車に乗って西に進むと、「ひめゆりの塔」(ひめゆり平和祈念資料館)があります。
ここは観光バスが多数乗りつけるほどの訪問者が来ていました。中国語でガイドを受ける団体さんもあちこちに。


入り口でお花を買って、献花台に近づいてゆくときに、「ひめゆりの塔」と壕(実際に陸軍病院第三外科壕があった場所)が見えました。
その時、急に思いも寄らない勢いで涙が溢れてとまらなくなりました。
何かもう、言葉にならない思いがどんどん流れてゆく感じに圧倒されてしまい、このまま資料館には寄らずに帰りたい…と思ったのですが、それはなるまい、と思い直しました。


資料館では亡くなった女子学生たちのひとりひとりの姿が浮かび上がってくるような展示がしてあります。
日常の延長として、戦火にまきこまれざるをえなかった、そのどうしようもない経緯と共に。
死者○○○人…と数で語られる人々の、ひとりひとりの失われた人生の重み。
その人と周りの人たちが受けた深い悲しみが苦しく胸にせまります。
ほんの数十年前に、これは、この信じられないような地獄は、実際にこの国にあったのですよね。
この「現実」を受け止めるには、私の心はあまりにも脆弱でした。
とてもではないけれど目を逸らさず向き合えない。向き合おうとはするのだけど、あまりにつらすぎて心が勝手にシャットダウンしてしまう。
途中から思考を停止した状態に陥ってしまい、展示も説明もどこか意識の外側にあるように感じました。
そんな心で見た中庭の花の色が…その生命に輝く鮮やかな色が、強烈に印象的でした。
生きることの、ただそれだけの無上の感謝と至福が、そこにありました。


気がつくと、隣を歩くお嬢(ちょうど彼女たちと同じ年頃の)に、「彼女たちを殺したのは政治なのだ、大事なのは政治だ」ということを、涙ながらにせつせつと話して聞かせていました。
この地獄は歴史の中の「遺物」ではなく、いつかまたふいに私たちの前に口を開くかもしれない「生き物」なのだと、資料館を出るときに感じたのはその思いです。
ここを訪れる前には、お嬢に「今の時代がどれだけ恵まれているのか、それはどんな歴史の上にできあがったものなのか」ということを教えたいという気持ちがありました。どこか、「彼女たちに頭を垂れなくては」的なね。
でも、実際ここを訪れて思ったのはそういった方向性のものではなかった。
私たちの平和がひめゆりの彼女たちの犠牲の上になりたっている、と考えるのは不遜だという気がしました。
「彼女たちはこんなにつらい思いをしたのだから、平和な時代に生まれた私たちはもっと甘えずに頑張らなければ」みたいな発想をしたくなるのは人情だけれど、それは実はズレている考え方なのだと。
彼女たちは、「なんのため」でもなく、純粋に犠牲だった。
つらい思いなどするべき人たちではなかったのです。
南の島でのんびりと暮らし、笑い、恋をし、子どもを産んで…いつの日か元気な”おばぁ”になる。そんなふうにして、とにかく「生きてゆくため」に生まれてきた子たちだった。
誰もが誰かの大事な大事な娘です。
どこの世の中に娘につらい思いをさせたい親がいるでしょうか。
彼女たちは本当に、当時の政治の犠牲以外のなにものでもないのです。
そのことに思いを致し、彼女たちを悼み、同じ目線で悲しみ、戦争を憎み、馬鹿な政治を恨むことが大事なのだと、気づかされました。


資料館を出たら、なにかとても疲れました。
出口付近にはノー天気なお土産物屋が並んでいます。脱力。
大勢来る観光客目当てだとしても、ここでこんな風に店を出すかね?と、その神経を疑いつつ、それでもこれが生きるということなんだなと思うと、それも有りだという気もし。
よくわからないまま、那覇市内に戻る車の中でいつのまにか寝入ってしまいました。


続きます。