「幻影師、アイゼンハイム」

昨日の続き。
映画を観た次の日の朝、図書館に飛んでいって、スティーヴン・ミルハウザーの原作「幻影師、アイゼンハイム」を読みました。
「バーナム博物館」という短編集に収録されています。


私には、「うわ、すごい!」という映画に出会うと、即、原作本を読みたくなるという癖があります。
映像で描かれていることを、文章(脚本ではナシに、です)でどう表現されているのかが気になってしかたないのです。
映像というのは万能で、なんだって表現できるような気がしてるんですよ。でも文章でそれを表現するには、立体のものを平面に載せるくらいの難しさがあるように思うのです。
文章だって読む側の想像力は映像以上(ほぼ無限、かもしれない)なわけですけど、書く側になると、その表現にはかなり試行錯誤する。
頭の中に浮かぶ動画をうまく言葉であらわせなくてとてももどかしい。
だから逆算して教えてもらえるとありがたいわけです。
なので「これを文章で表現するにはどんな方法をとるのだろう?」って映像作品に出会うと、とにかく強烈に原作が読みたくなる。
逆に、映像がそのまま文章になって面白いようにスイスイ頭に入るような映画だってあります。それもまた別の意味で原作読みたくなるのですけどね。答え合わせ、みたいな感覚で。


けれどこの作品の原作本にはちょっと失望しました。
失望の意味は原作がつまらなかったからではありません。
原作と映画がまるで別物だったの。
ゆえに「この映像を、どう文章で表現しているか?」という私の好奇心を満たすことはなかったのです。
原作は物凄く短い短編で、「かつて19世紀末の爛れた時代の終わりに、アイゼンハイムという稀代のイリュージョニストがいたよ」という…
そのイリュージョニストの存在が、この世ならざる幻影を観衆の前に出現せしめ、時代や場所と相まって、なにか得もいわれぬ影を落として消えていったのですよ…という、どこか回顧録風味の魔術師譚なのでした。
映画はこの時代設定とキャラクターだけを使って別の物語を作ったものだったのです。


ただ一つ、ほぅ、と思ったことは、あとがきで訳者の柴田元幸さんが「"illusionist"という言葉は、哲学の文脈では、物質世界を幻影と考える者の意」であると書いていたことです。
この一言は、映画のエッセンスと通じます。
実存とは何か?とか、そういう深い話にもしかしたら入り込んでしまいそうな足場の不安感を描くのは、スティーヴン・ミルハウザーお家芸のようですね。
とはいえ、あまり私のシュミではないかもなぁ(^^;;)。