ブログ雑感

昨年は後半、ブログを書くモチベーションが下がってしまってなかなか更新できませんでした。
それでもブログ自体をやめてしまおうとは思わなくて、続けてゆく代わりに自分の中の枠組みを一つ壊すことにしたのです。
つまりそれは、日記のような内容であっても悪びれず書いてゆこう、ということです。
今まで心のどこかでブログに日記めいた内容を書くのはみっともない、と思っていました。垂れ流しなのではないか?と。
そのくせ私は他所の日記ブログを愛読してて、日記というものは書き方によっては何よりも面白いのだということをわかっているのです。
自分のブログを後で読み返してみていちばん楽しいのも、日記や考え事を綴ったような日常の記録なのです。
それでも、3日続けて日記ネタだったりしちゃうと、今までの私はものすごく焦ったんですよ。これじゃダメじゃん、って。自分ごとしか書けないブログやってるなんて恥ずかしいじゃん?と。
それもこれもファンサイトなんぞをやっていた弊害で、下手にブログを「発信」なんて思ってるのが間違いの元なのですよね(いや、思っていないはずなのだけど、そうあるのがカッコいいという認識がまだ残ってる気がします)。
ブログなんてのはネタがどうあれどのみち垂れ流しなんです。
コンサートの感想を書こうが、映画の感想を書こうが、それは文化的発言やご意見などでは毛頭ない。むしろ単なる日記よりも(他人のやってることにあれこれ意見を言うという性質上)鼻持ちならないものだったりします。
そんなことはわかってるんですよ。
でも、それらだって間違いなく「記録」に他なりません。
それらも揺るぎなく「私の記録」です。日記書くのと同じことなんですよ。どっちだって私が書くこと、です。で、誰かのためなどではない、自分勝手なものなのです。
大事なのは枠組み(書く内容のカテゴリ、とか)ではなく、私自身が書きたいと思って書いているか?ということなのです。
カテゴリに縛られて自分にとってどうでもいいことを書くのは、ブログ全体の「生命力」のようなものが落ちる気がします。ブログを書く意味からも離れてしまう。


寺山修司の短歌の中の一節に「書かざれしかば生まれざるもの」というのがあるのですが、(以前、こちらの記事で触れています)昨夜フトこの言葉が頭に浮かんで離れませんでした。
以前はこの言葉を「物語の創造」という側面でとらえていました。つまり、私が書かなければ、始まらない物語がある(書かないゆえに生まれない存在があるのだ)といったような。創作というのは世界を生み出すことであり、そしてその「世界」は、書くことのみによって存在しえるのだ、と。
けれど、「書かざれしかば生まれざるもの」はなにも創作だけに限らないんですよね。
たとえばこんなどうでもいいようなブログでさえ、書くことによって生まれているものがある。
私の似姿のような…ネットの海の中で生まれ、ハンドルネームをもったもう一人の私のカタチ。
それは他の誰もが興味がなくても、確かに存在し、私自身を支えるのです。
ブログを生産的だとは思っていないし、自己満足にもなっていない。むしろちょっとしたストレスなわけですが、じゃ、なんで辞めないのか?と聞かれれば、上手くいえませんが
「私はすでにここにいるから」
としか答えようがありません。
ここでは、書かなければその存在がいなくなっていくだけです。書いてゆくことでのみ、ネットの中の人格は血肉をつけてゆく。
それはあまりにバーチャルで実体のないものですが、それでも確かに私であることに違いはないのです。
私はもう10年以上もこの人格と付き合っています。もはや欠くことはできない。彼女(yona)を欠いた自分を想像しにくくなっています。


一般的に、個人が己の「個」を確認するには、第三者が必要だといわれます。他者があってはじめて自己が認識できる。
ブログはいわば私と他者の出会う「場」です。
この場合の「他者」は文字通りの他人ではなくてもよくて、自分の内なる第三者(自己の中に無意識的に存在する他者)でいい。ブログに載せて発信した言葉を受け取っている「であろう」人(そんな人はいないかもしれない、という意味での「であろう」、です。もっと言えば「架空の他者」)が必要なのです。つまり、「yona」という存在もまたその一つ、というか、主なる対象は彼女にあるといっても過言ではないほど大きな存在です。
ブログに自分ごとを書くという行為は「私はこんな人なのよ、見て!」という自己顕示欲とはむしろ真逆の「私は誰なのでしょう?」という第三者(くどいようですが、それは自分でもあります)への問いかけに近い。
自己を他者に投げかける、というよりもむしろ他者という壁に自己を投影させて自分を見る確認の場となるわけです。
要するに「メタ認知」みたいなもんですかね。
ブログが机の引き出しにしまっておく個人的な日記とは機能が違う、というのはまさにそういうところです。(それを同等に考えるということ自体が私には信じがたいですが、ごっちゃにしてる人、多いよね。)
言葉というものは人を認識する「よすが」でありますが、それは自分自身に対しても同じなのです。
私がブログを続ける理由はそれです。きっと。
伝えたい何かがあるから、ではありません。そういう時期(萌え語りの時期、ですねw)もありましたが、今は違います。
もちろん、ブログを書く理由はそれこそ十人十色でしょう。これはあくまでも私の話です。
おそらく、独り語りの中に他者を見出しそこから自己確認する…などというまわりくどい感性は、それを持たぬ者にはなかなか理解が及ばないものかもしれません。

そしてもう一つ、私がブログを必要とする理由は、単純に自分の記録を残したいということです。
これも以前はなかったものですが(記録なんぞ見苦しい!面倒くさい。スッキリと後味を残さない方がカッコいいみたいに思っていた)、年々その思いに変化をきたすようになりました。単純にトシとったせいかもしれません。
なにせもう40をすぎてしまったのです。源氏物語ではちょうど紫の上が薨去した歳ですよ(哀)。日々大切に、どんなカタチにせよ少しなりとも記録に残したいという心境にもなろうというものです。
今日という日は再び私には帰って来ないのです。何も記録せずに過ぎてゆく一日の存在が、なんだか茫洋たる空の彼方に吸い込まれてゆくように心もとなく感じるようになってきました。
日々の記録はそりゃもちろんブログでなくてもかまわないのですが(ノートにつける記録もできるだけ残すようにしてますが)きれいに写真を添えて、ある程度他者が読むことを想定して考えた文章で綴るブログの記録は、やはり後で読み返すと嬉しいものです。どのみち公にする向きに書いているので、そのまま子どもたちにもいつか見てもらえるでしょう。


そういうわけで。
今年は純粋に自分のためにブログを書いてみようと思っています。
自分のため、とは、後で自分が読み返して楽しむため、です。心の記録にしてゆけたら、と思います。
そして、できるだけ休まないように。せいぜい週休二日くらいにとどめて(^^;;)、続けられたらなぁと思っています(ってこれは、あくまで理想ですが(汗)。なにせ「継続」ほど難しいことはありませんのでね!)