お宝本

買ってしまった(汗)。
昭和49年の新譜ジャーナル別冊。



たかだか雑誌1冊なんですけど万札が飛びましたよ。
雑誌ってのは増刷や再販がないですからね。貴重なのです。見つけたときに買っておかないと!
噂では渡さん自身も、この本を出してサインをしてくれと言ってきたファンに「いいなぁ。俺これ持ってないんだ」と言ったということなので、きっとお宝本なんだと思います。入手できてホントに嬉しいです。
私のことですからいつかまた誰か熱烈なファンの方に譲ることになると思いますが(そういうところ、私はすごく流動的です。決してお宝を死蔵したりはしません)、そん時までなるたけ劣化させないように大事にしますね。


昭和49年ですから1974年の刊行です。
渡さんがいちばんモリモリとアルバムを発表してた頃です。
25歳。充実の歳、ですな。
この本の中で初めて渡さんの「奥さん」の写真を見ました。漣くんにそっくり!(あの特徴のある鼻はお母さん譲りだったんですね〜)
なんだか嬉しくなりました。「系図」の世界が浮かびます。
この本の編集中、奥さんのお腹の中には4ヶ月目くらいの漣くんがいるんです。若い夫婦はまだ見ぬ未来を抱えてソワソワしている。
結局はたぶんダメオヤジな渡さんなのだろうけれども、そうなりそうな萌芽を見せつつも、新米父さんは心配性で、奥さんのことを遠巻きに見守っている様子です。戸惑いながらもパパの顔を見せている。子どものために貯金したい、とか、がんばらなくちゃ!みたいなことをチラチラ言ってる。でも、やはりどこか及び腰で、余計なことを考えすぎてるんですよねぇw 父になるにはあまりに脆弱、って感じ。
詩人というものは厄介だな、と思うね。


どこで読んだのか忘れてしまったのだけれど(なにしろいっぺんにいろんな関連書類を読んでいるので)誰かが、「(渡さんの音楽は)音楽という形を借りた文学だ」と言っていました。より正確に言うと、「音楽というよりも文学」だというニュアンスだった。
反論はあるかと思いますが、私はそれにすごく共感するのです。
もちろん音楽であるのだけれど、音楽であることをも含めて(撮った写真やら私生活やらも全部含めて)この人の醸し出す世界は文学的なのですよ。
「文学的」とはあまりに抽象的だけれど、なんというか、やはり「言葉」で生きているんだな、という感覚です。
私は渡さんの「音」がすごく好きだけれど、まぁ、ぶっちゃけオリジナリティは低いです。アメリカ中西部のフォーキーブルースの受け売り、みたいな。ある意味スタンダードで。
でも、そこに日本語の現代詩などを乗せて歌うと、渡さん独特の風景が浮かぶ。思想性まで浮かび上がってくる。それを彩るのはあの声とギター。そしてたぶん詩への理解力なんだと思います。
そういう「結局この人って詩人じゃん?」な個性が、この雑誌の中にも溢れていました。
まぁ、基本、飲む話ばっかりしてんですけどね(笑)、こんな若いうちからアナタw