「タカダワタル的」

タカダワタル的 memorial edition [DVD]

タカダワタル的 memorial edition [DVD]

  • 発売日: 2005/06/24
  • メディア: DVD


渡さんのドキュメント映画です。
これ観る前に息子の漣さんとのライブCD「27/03/03」を聴いてグッとキちゃっていたせいか(感想は後で書きます)、期待していたほどのインパクトは感じませんでした。「ああ、これが渡さんなのだなぁ」というのはしみじみと伝わってきて、そこは良かったけれど。


たぶん映画ではいろんなものが見えてしまっていて、それが却って想像力をかきたてない作用をしているのかもしれません。
というか、違うな。逆だ。
へんな想像力が作用しすぎるんだ、きっと。
渡さんの「外側の人」の思惑が見えすぎる。それが邪魔だ、はっきし言って。
渡さんはああいう人で、その等身大の言葉と音と個性がすごく魅力的なわけですが、どうもそれを過剰に受け止める人たちがいて(映画のフィルムの中では)全てが演劇的になっている気がするんです。
ご本人はそんなこときっとどうでもいいと思っていたのだろうけれど、ファン心理というのは複雑で、タカダワタル的なものの「どこをどう」感じるかがそれぞれに違うゆえに、少なからず齟齬が生まれてしまうわけです。製作側の思い入れが強くなればなるほど、その思惑とズレた側からすると「なんだか違うぞ?」と感じてしまうところがどうしたって出てくる。
まず最初に「国が認めない人間国宝」などという言葉を使われた時点で、もう私なんかは萎え萎えになってしまうかんね。
ああ、そういうとらえ方なのか、と。
モーツアルトは天才」という”言葉”がスカスカなのと同じだ。
そりゃそうなのだけどさ。そりゃそうかもしれないけれど、それを証明するのも認識すべきなのもそういった”言葉”ではないから。


私がハマリたてで新参者だからどこかわかっていないところがあるのかもしれない。
不思議なことに、持ち上げられたコンセプトに乗っかって映像に写る渡さんを見ていると、あるはずのない何か胡散臭さが漂ってくる。
歌だけを聴いていたときには感じなかった、ちょっとイヤな匂いがする。
でもそれは渡さんの持っているものというよりも、渡さんを撮る側の人間の持っているものだ。
映像に切り取ったとき、タカダワタル的なものは消えてしまい、撮る側の人間の思惑がにじみ出てくるのかもしれない。柄本明が最後に言ってた「欲」ってものだろうか。
柄本明の「渡さんのようにやってみたいけど、そう思った時点で渡さんのようにはできないってことだからね」という一言。まさにそこにこの映画の本質が集約されている。
つまり、タカダワタル的なものに憧れる心はとてもタカダワタル的なものからは遠く、したがってこの映画も高田渡を描きながらどこか高田渡からズレていく運命にある。最初から。
「結局は個人の問題」。そういうことなのだね。



でも、映像で動き、歌い、笑い、酒を飲む渡さんの姿を見られたのはとても嬉しかったです。こういう形でしか、お会いできないわけだし。
そういう意味では続編(?)の「タカダワタル的ゼロ」も楽しみにしています(これはミニシアターで巡回中で見る機会がない。DVDになるまで待たなくてはいけないのかも)
私は基本的に酒飲みが嫌いなんだけれど、渡さんの場合はもう別ですね。仕方ない。だってもう、過剰だもん。「酒、やめたほうがいいよ」とか、そういうレベルじゃない。こっちが言葉を呑むしかない。それはもう、あまりにも楽しそうに嬉しそうに酒を飲むから、そんなこと言っちゃ可哀相な気分になる。チャーミング。ゆえに許しちゃおう、と思える。
たぶん「健康に悪いよ」と思ってる人が周りにいても、だからっつって「お酒やめましょうよ」なんて言えなかったんだと思う。それを言ってあげなかった周りの人を責めることはできない。
禁酒して命永らえていたら、と思わなくもないけれど、それももはや仕方のないことです。
そういうのも含めてまるっと渡さんはできあがっている。
渡さんには憧れないし、結婚したくない相手の筆頭ですが、でも私は渡さんが大好きです。どんどん好きになる。ほんとうに。


ところで。
吉祥寺の「いせや」に、行ってみたいなーと思ってちょっと調べたら、すでに改装のためあの建物は取り壊されてしまったというのを知りました。
うわー…呆然。
私はどこまで遅れているのでありましょうか。
渡さんの人生に間に合わないだけでなく、「いせや」にさえ行けなかったとは。
「ブラザー軒」と「イノダ」は大丈夫かなぁ(汗)。