「RURIKO」

RURIKO

RURIKO


マリコさんの本を買うのは本当に久しぶり。
大昔は大ファン(ルンルンの頃からのリアルタイムファン)で、新刊が出るたびに買ったものだけれど、いつのまにか好きじゃなくなっていた。
今調べたら、新刊を買った最後は1990年でしたよ。ずいぶん前のことだなぁ。
最近は週刊誌の連載を読むだけでも鼻白んでしまって、ずいぶんその距離は遠ざかった感があったのだけど、この小説だけはどうしても読みたかったので、ちょっと悔しいけれど、買いました。
「ちょっと悔しい」ってのは、いかにもゲスな好奇心をもった人(といって悪ければ、芸能界ゴシップ好き)対象に書かれたものを釣られるように買う自分が情けなかったのですよ。でもしょうがない。読みたかったんだもん。


案の定、めちゃくちゃ面白くて、一気読み。
だって主人公は浅丘ルリ子なんですからね!
あくまでも週刊誌の暴露ネタを読むような面白さであって、小説としてどうかというのはもうあまりに題材が反則技なのでモニョるところです。
でもたぶん、ゴシップ的な意地悪な視点で対象を見るのはマリコさんの稀有な才能の一つで、やはりその強みが最高に生きてるなぁーという感じ。こういう題材だからこそ、それがさらに面白い。
マリコ的なあからさまで遠慮のない描写が、「ここまで書いていいのか?本人たちの許可は取ってるのか?大丈夫か?」というギリギリのところに加わって、ものすごいエキサイティングです。
ルリ子さんは許可してたって、その他の人々はどうなるんだろう、とかマジで心配になります。
芸能人は公人みたいなものだからこういうのもありなのかな。
でもこれはあくまでも小説(フィクション)ですからね。


登場人物は綺羅星の如きスターばかりです。裕次郎北原三枝小林旭美空ひばり石坂浩二
これが面白くないわけないって!
こちとら大の「昭和芸能界好き」ですからね。浅丘ルリ子石坂浩二が結婚式した時の記事が載ってる古い女性週刊誌をわざわざ買ってもってるくらいですからね…ってそれはえーっと…アタシがへーちゃん(石坂浩二ですよ)のファンだからですけどね(汗)。
このへんで書いた文章に、へーちゃん惚れを滔々と語ってますよ(恥)。てか、今読んだらカレーパン本について書いたとこにマリコさんの名前も出てる。こういった人脈が後に生きる、ってのはあるのだろうなぁ。)
というわけで、ホントのこと言うと、この小説がどうしても読みたかったのはへーちゃんとのくだりが読みたかったからなのです。
フィクションでいいんですよ。もちろん。事実じゃないなら価値がないなんてこと全くない。
なんたって、あの頃の、気絶しそうにキレイなへーちゃんとルリ子さんがこの物語には出てくるのです。出会い、結婚し、すれ違ってゆく二人が。もう、ホントにそれを読めるだけでいい。あとはこっちが妄想するから!ってな感じ。


もうね、その点に関しては大満足でした。
へーちゃん、スゴイね。最強だね。漫画みたいだ。
マリコさんの描写はいきいきとへーちゃんのキャラクターを動かしてる。すごい精緻なレベルですよー。
桁違いの饒舌。過剰な文化崇拝。アブナイ域のロマン嗜好。
それに疲れてゆくルリ子さんの表情までよ〜〜くわかる!
私も読んでるだけで疲れた(爆)。
二人の別れが必然だということが心底納得できました。
それにしてもへーちゃん(あくまでもこの小説の中のへーちゃん)って、言ってみればすごい変人だ。しかもとんでもなくパワフル。飄々とした風貌からは想像もつかないあのスピードと厚み!
本を読み、絵を描き、詩を作り、旅行をし、厨房に立ち、オシャレで、美食家で、インテリアにこだわり、物知らぬものにはレクチャーし、劇団を主宰し、TVドラマで主役を張り、常におしゃべりで、天然で前向き。そうしてへーちゃんワールドは増殖し続ける。
ワンダーランドだな。そこには誰も入れなかろう(^^;;)。


裕次郎小林旭美空ひばりは描写も多いのでファンの方は読んでみたら面白いと思います。
吉永小百合や渡哲也などの描写はほんの数行で、「こういう子がいる」程度の話しか出てきませんが、そのホンの少しの記述の中に確固たるキャラクターが光り輝いていて、印象的な存在感を残しています。
とにかく、当時の芸能界が好きな方でしたらきっと楽しく読めると思います。


最近TVで見たルリ子さんは、ビーズの手芸に凝っていて、いろんな人に手作りのビーズアクセサリーを配っていることなどを楽しそうにお話なさってました。
「高価な宝石よりビーズが好き。可愛いでしょう?」と。
そんな素朴なシュミを持ってるルリ子さんって意外だったのですが、きっとずっと、あのゴージャスな美しさの内側は素朴で可愛い人だったのだろうなぁと思うと、また違った想像が浮かんで楽しいものです。
スターというものは、本人その人よりも、そこからどんな物語を感じさせてくれるかが大事。
というか、それが本質的な機能なのですよね。
虚実の間の明確な線引きなど意味がない。
ゆえにフィクションもまた、スターそのもの、なのかもしれません。