書かざれしかば生まれざるもの

注文していた本が届きました。

寺山修司未発表歌集 月蝕書簡

寺山修司未発表歌集 月蝕書簡


テラヤマの未発表歌集。しかも亡くなるちょっと前の。
こんなのが今になって出てくるなんて、感無量です。
テラヤマのあの朴訥な東北弁(声だけ聞けばまるでエビスヨシカズ風の口調)で、ポツンと夜の枕元の白熱灯の下で呟かれているような…どこかホッと落ち着ける、自分だけの楽しみに浸っていられるような馴染みのよい歌集です。
要するに相変わらずのテラヤマ節で、それまでの作品からの変化はほとんどない…というか、年を重ねただけ落ち着いてはいるものの、同じ世界観と同じ作歌イメージで作られているものばかりなので、安心して読めます。
そのくせまだ途中稿のようなものも数点あるというスカスカ感も加わり、ちょっと「オマケ」的な(でももちろんその「オマケ」は豪華なのだけれど!)感じも受けます。
本の構成は1ページに1首、という形。
それがすごくしっくりきて良かったです。
やはり、1首が1つの世界を表現しているわけだから1ページに1つだけ載せるのが鑑賞しやすいです。
これは決してスペースのムダではないぞよ。
同じようなモティーフの作品が並んでいても、ページが変わると場面も変わるようで面白いです。



王国の猫が抜け出すたそがれや
         書かざれしかば生まれざるもの


今日の表題はこの作品からとりました。
思わずぐっとキて涙ぐんでしまった。
書かなかった想いを誰が知ることができるだろう?
書かない、ということはある意味での「死」だ。(こんな場所では特に)
気づかずにとりこぼしてゆく日々の泡の中に、書かなかった人生は人知れず溶けて流れてゆく。
そうして私たちは絶えず喪失し続ける。
私は、私の物語をどうしようかと立ち往生したまま、またトシをとる。


付録の栞として佐佐木幸綱先生との対談が付いています。(1976年週刊読書人での対談です)
そこでテラヤマが語った
「万物を連続体としてとらえる発想というのは、すでに散文の発想」
という一言がとても印象的でした。
”万物を連続体としてとらえる発想”とは、つまりは叙事的(物語)であるということです。
私は個人的に物事を「時間」でとらえるのが好きだし、「時間」のある物語がツボだったりするのですが、*1そういう(私のような)感覚を持った人間にとっては、物事を非連続として切り取っては取り出してくるテラヤマの視点はことごとく新鮮であり、なにかもう、とんでもなくすごい才能だと圧倒されてしまうのかもしれません。
佐佐木先生もまさに「時間軸」にロマンを感じる派(笑)、らしく、言ってることがいちいち私の気持ちに近いのでテラヤマとの掛け合いがとても面白かったです。
この本の解説で佐佐木先生は、テラヤマと初めて会った時(その頃まだ佐佐木先生は学生だったそうです)、テラヤマが「君に子どもが生まれたら、かならず「綱」のつく名前をつけろよ」と言ったというエピソードを書かれていますが、まさにそれなんてテラヤマの神秘的な洞察を感じさせるものです。
佐佐木先生のトコは代々「綱」がついている有名な学者さんの家系だけれど、そういう「周知の事実」よりも、佐佐木先生がそういったところに魂の根幹を置いているということを「直感で」見抜くようなところがテラヤマにはあったという凄みのほうに惹かれるエピソードだと思うのです(そう思わせることができるのが実にテラヤマ流のハッタリなのかもしれないけれどw)。
後年、佐佐木先生はご結婚し息子さんたちに恵まれ、それぞれに「綱」の字のついた名前をお付けになってます。そして、こう歌うのです。


祖父・父・我・我・息子・孫、
      唱うれば「我」という語の思わぬ軽さ


佐佐木先生の持つこの「時間軸」(=叙事詩)に、たぶんテラヤマは激しくせつなく憧れていたことだろうと思います。
これこそがテラヤマが欲しくても得ることの叶わなかった世界なのかも。(それは谷川俊太郎との関係でも見て取れる)
この時間軸が最初から欠如していて、自分という断絶した個の存在だけで立つしかなかったのがテラヤマがテラヤマである所以のように感じます。
今ここにいる点のような瞬間しか持たない、と彼は決め、その非連続な時間の中での叙景的刹那感を武器にした。
壮絶なまでの「時間捨て」。
それは過剰な柱時計のモティーフにも象徴されているのかも。
独りきりで枯野を渡り横抱きにして売りに行った「時間」を、彼は諦めつつも生涯憧れ続けたような気がしてなりません。


テラヤマの作歌姿勢に関してあれこれ言う向きはいつの時代もいるものですが、これだけ揺るぎなく圧倒的な濃さでそこにしかない世界を見せつけてくる作家に対する批判としては、どうも上滑りの感があるのをつくづく感じます。
芸術をやる上でも一定のルールがある、という社会通念というか常識というか人間の良心を、テラヤマは芸術の名の下に一蹴している部分があるのだろうけれど、彼がどんな手段を弄していたとしても、たとえ穢れていたとしても、それさえもが(それゆえに)テラヤマ自身である、という「できあがりぶり」は他に類がなく、誰がなんと言おうとそれは珠玉です。
そこには絶対的に作品だけがある。署名より先に、作品そのものが。そこで署名にこだわる人は気の毒にも浮いて見える。残酷なことですが。
そして皮肉にも、テラヤマの作品はそれ自体が署名となるほど本人そのものなのです。
本人の演出関係無しのこのディモーニッシュな部分が稀有ですね。


ちなみに、私がもっとも大切にしているテラヤマ本は、昭和61年に思潮社から出た「全詩歌句」です。
作品集としての価値はもちろんのこと、それに加えてこの書物自体に思い入れがあるからなの。



私は結婚する時、旦那にこの本を贈ってもらったのです。
指輪など欲しくなかったし、結婚式もいらなかった。
私は、結婚してもずっとテラヤマの歌を心に抱えたままでいるような、なんというか永遠の女子青年のままでいようと堅く心に決めていて、そうである限り二人は磐石だとも思っていました。
穴の開いたジーンズにとっくりのセーターを着た23歳の青臭い娘は、この本を抱えて気まぐれみたいに、でも狂いそうに切実な想いを抱いてお嫁にいった。そこに私の自負もあったわけなのですが、それが今ではがっつり普通のオバサンですからねぇw
テラヤマに対する評価はあの頃よりは冷静に(でもたぶん以前より深く)なっていますが、彼の作品が私の青春に多大な影響を与えたことに変わりはありません。
それは時を経るごとにむしろ強く懐かしく思えてきます。
ノスタルジー。それもまた時間軸の生み出す平野でありましょう。そこから眺めるテラヤマはなおいっそう極北の星の如く、です。

*1:だから若い子には興味なくて、オヤジスキーなんですが、なおかつそのオヤジの若い頃が特に好き、「オヤジが若かった時代」がツボっていうヘンな嗜好があります。そこに流れる時間が物語りを運んでくるからなのですよ。なので根本的にタイムトラベルモノにヨワイんです