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「古代エジプトの美展」


ポカポカ陽気の日曜日、家族で宇都宮美術館に行ってイートン・カレッジダーラム大学所蔵 古代エジプトの美展」を見てきました。



美術館前の野原はお気に入りの場所。
つくしがいっぱい生えていました!
東京の都心も魅力的だけれど、最近はあの人込みに疲れるようになっちゃって。
このくらいの人口密度だとようやくホッと落ち着けるような感じです。(って、人、ろくにいないし)
この林の向こう側に美術館があります。



フィールドの中にはバリー・フラナガンのうさぎがいます。
作品名は「ホスピタリティー(歓迎)」。楽しそうに跳躍してます。
フラナガンのうさぎはいろんなところにいるけれど、これは中でも大きい方じゃないかな?
横からのショットはありきたりなので、正面から写してみました。
ちなみに横から見るとこんな感じ。



こちらは美術館の入り口。
中庭のオブジェが見えます(クレス・オルテンバーグの作品「中味に支えられたチューブ」)。


エジプト展には実物のミイラなども来ていたのですが、構成材料の説明に「木、カルトナージュ、人体」と書いてあるのが衝撃でした!
もはや歴史的遺物と化しているとも考えられるのかもしれないけれど、やはり「人体」ってのには狼狽しますよね・・・
ミイラとなって東洋の果てまでやってきて、たくさんの人の好奇の視線を受け続けるこの人は、いったいどんな人だったんだろう?何をまとい、何を食べ、誰を愛していたのだろう?
そんなことばかり頭に浮かびます。どうしても「モノ」とは認識できません。
同じように、多くの出土品にも芸術作品に対するようには向かい合えないんですよね。作られたものの芸術性などよりも、それを作った人の存在や心のありかばかりが気になってしまう。
当時これらのものを作った人たちがどんな生活をし、どんな想いを抱いていたのかという想像がぐるぐる回る。
ちょっと重い。
なので、出展数がそれほど多くなくても、見終わる頃にはフラフラです。
小さなカエルのお守り。スカラベにびっしりと刻まれた文字。当時の人たちの不安や祈りが伝わってくる。
全裸で水汲みをする奴隷の少女はどんな思いでその人生を生きたのか。つらかっただろうか?悲しかっただろうか?それとも幸せだったの?
大理石の壷の上に精緻な絵文字を綴った人は、その文字が何千年も後にまで残るとその時想像しただろうか?
乳をやる母は、それを飲む赤ちゃんは、このあとどんな人生を生きたのだろう?
あの精悍な若者は、若き兵士は、どんな最期を迎えたのか?


・・・彼らは皆、どこへいってしまったのだろう?


そこにあるのはすべて人間の営みでした。
遠い遠い昔にも、人は家族を持ち、愛する人がいて、守りたいものがあり、何かを畏れ、何かに歓び、祈り・・・そうやって生きていて、その証の数々がここにある。
何の因果か、こんな東洋の果ての田舎町に渡ってきている。
何を伝えるために?


彼らはとうの昔にみんな死んでしまったけれど、ここには何かが生き続けているような気がします。
それは、自分もまた彼らと同じ流れの中に生きているという感覚かもしれない。
川のような、絶えない流れ。
私は今、生きている。ここが現時点。
でも、やがて現時点はシフトしてゆく。
ここにある命はみんな死に、ミイラとなって海を渡るのは今度はこの私かもしれない。
やがてまた見知らぬ誰かが今の私のような立場でここに立ち、そして何かを感じるのだね。
人間というものはそういうものなのだ、というのをしみじみ感じました。
小さな悩みを抱えた人には、いい薬になりそうな展覧会かもしれません。
こんな圧倒的な人間の営みを見た日にゃ、ただ生きてるだけだって素晴らしく思えてきますよ。
何千年も続く河の流れの中にあっては、生きることそのものが至上なのだから。


その後、常設展示を回ったのですが、私の(美術界の)心の恋人である柳瀬正夢の作品が架かっていたのでシアワセでした。
ポスターですけどね。(常設のプチ企画が「ポスター」だったのだ)
滅多にでてこないものなので、なんだか話しかけられているような気がしましたよ。
もう60年も前に空襲で亡くなってしまっている正夢は、私の存在など知ることなどないけれど、私は彼にいつもチカラをもらっています。
そういう意味では、彼は今でも確実に生きている。つながっている、と感じます。
某ケータイCMで使われる「つながっている」という言葉のニュアンスは苦手だけれど、人って時や場所を越えてもつながりゆく存在であることは確かみたいです。