「色、戒」(ラスト、コーション)その1


日本公開記念!ということで、封切日に映画館に行けない私(てか、そもそも地元での公開が無い!なぜ!?)は昨夜遅く、自室でひっそりとDVD鑑賞いたしました!
観る前は、期待とか不安とか下世話な好奇心とか、ディン・モーツンの描写に対する個人的な興味とか、いろいろあったのですが、フタ開けてみたら「王佳芝の女の半生〜激動編〜」を純粋に楽しんだなぁ、という感じでした。
彼女の周りで男たちが踊る。男たちはみなどことなし滑稽でヘタレで情けない。
腹がくくれていてカッコいいのは、タン・ウェイ演じる王佳芝だけだ。
誰もが自分たちが王佳芝を翻弄していると思っているけれど、その実、彼女は誰よりも自分の立場をよくわかっている。揺るぎなく立ち、あらゆるものに翻弄され続ける周りの者たちをじっと見つめている。その覚悟と惧れを湛えたタン・ウェイの目の演技!すごいです。


これはもう、完全にタン・ウェイの映画。
堂々たる主役ぶりでした。惚れ惚れ。なんて素敵な女優さんなんだろう!
偉仔も体張って頑張ってるし、ものすごく上手い演技してるけど、どこか易先生は引っ込んでしまっている感じ。そういう役まわりなのかもしれない。
だいいち、ご本人も言ってたけど、これ、今までの偉仔じゃない。
偉仔の持ってるキャラが一つもその造形に無い、完全に「他者を演じる」状態で(カーワイ映画と対極にある演出、ってこと)、そうなるとこの人は、上手いけれどもなにか精彩を欠くのだなぁという感じがちょっとしました。やっぱりこの人を料理するのはカーワイが一番上手いと私は勝手に思ってます(笑)。


愛国青年・裕民を演じたリーホンは見事にハマリ役。期待通り。
リーホンのバカみたいに一途な瞳(演技がとくに上手くないのがさらに効果的!)を見ていると「彼は絶対に私を救い上げてはくれないのだろうな」という絶望に陥る。
それはもう、あっけらかんとした絶望ぶりなので、もうこっちは諦めるしかない、くらいの。
あの男は、女にとっては絶望的な男なんですよ。
理想ばかりが高くて一見すごくしっかりしているのに、肝心なところで逃げ出す男。思い切りが悪くて大事な一言が言えず、いつまでも後悔しているような男。決して助けてくれないくせに「僕は君を愛している」とマジで思い込んでる男。
要するにダメな男だわさ。
でも、そのダメっぷりがエロスでもある。



想いを寄せてる彼女がどんどん他人のモノになっていってしまうのをコブシ握り締めながら目をそらしてる童貞愛国青年はそれだけでエロい。
自分の采配で汚されてゆく白百合をこの男はどこか嗜虐的な感覚さえもって見ている。
きっと彼は悩みながら彼女を想い、しかしそれとは裏腹に自分で自分を慰める日々だったのだろう、と。そしてその悲しい右手で銃を取り、国を思うんですな。実にわかりやすいヒト。
愛国青年が彼女から絶妙に目を逸らすのは、ツレないわけでなく、童貞青年特有の臆病さと潔癖さと残酷さが同居してそうなっちゃってるわけで…そこに妙味がある。(こんなこと力説してどうすんの、って話だけどw私の心の琴線にやたら触れまくるキャラですので、語れる語れる一晩中語れる)
最後のシーン。王佳芝を見つめる愛国青年は心の内で「あの世ではきっと僕ら一緒になろう」くらいのことを悲壮な感傷に溢れながら思ってるんだろうけど、王佳芝はすでに男女の性愛の向こう側まで知っちゃってて、虚空を見ている。
二人の意識レベルが噛み合っていないチグハグな寂しさが感じられる、とてもいいシーンでした。


これ、一応歴史的な背景がモデルとしてあるみたいなんですが、実在の人物にはあまりハメないで見たほうがいいと思います。
易先生がディン・モーツンだとか王佳芝がピンルーだとかは気にする必要はない、と感じます。私の傾倒してたディン氏とはイメージも存在もあまりに違うので関連付けようとするのは無理があったし。易先生が何をやっている人なのかはここでは描かれないし(日本の傀儡政権に属して抗日を邪魔している、という「立場」がわかるだけ)。
歴史背景も、それぞれの立場を決めるのに必要な背景であって、それ以上ではないような気もします。
歴史物としては少し描き方がユルい、という意味でも。
だいたい、「暗殺目的でスパイとして近づく」ってのはそもそもヘンだ。暗殺だったらあんな近づき方する必要なんか無いもの。「情報を得るため」「内部で通じるため」「何かを盗るため」に近づくのならわかるし、それでは相手を殺してしまっては何にもならない。
抗日運動家の側があまりに幼稚で、学生のお遊びの延長のような行動しかできないのが滑稽です。
ま、実際あんなもんかもしれないのですがねレジスタンス活動なんてのも。百戦錬磨の政府の特務機関とはやってることが違いすぎ。
ただ、時代背景としてのファクターは、物語の最高の演出を担ってる。あの街角のセットも、服装も、音楽も、マットな質感の白粉も口紅も(口紅はすぐに落ちてカップにべったりと付く。そんな細かい描写にあの時代の匂いが濃厚に漂う。上手い!)、アンリー監督のこだわりが随所に感じられて、とにかく映像の力は凄い!の一言。
この美しい映像が、性描写過激のゆえに広く世に放送できないのはいかにももったいないです。


でもって、話題のエロ描写ですが…これ、私の印象では全くエロくなかったです。
過激でもない。
そりゃ18歳未満には過激でしょうけど、成人が見てどうのこうの言う描写ではないですよ。
こう感じるのは私がスレてるだけで世の中の人はもっとウブだってこと?そんなことは無いと思うぞ。
ちなみに私が見たのはノーカット(?)の台湾版です。偉仔のナニかもはっきり見えるやつ。だからどうだ?という話ですよ。本番アリなのか?ってのも、アリだっていいじゃないですか。アリじゃなきゃ不自然に見えちゃうんじゃない?そんなことで喜んでる人も映画を観れば観かたが変わります。絶対に。
でも、性描写は必要ないか?といったらこれが違う。絶対に必要!なのです。
この映画はそれが無いと成り立たない。話題のための性描写ではない。明らかに必要な場面なんです。だからカットされたらどうしょうもないですよ。ボカシもいらん!なんでボカすかね?その感覚が信じられない。
「猥褻」とは、こういうシーンでそこだけボカすという精神性そのもののことを言うのだと思いますよ。
性交場面はエロくなくともこの映画は十分に官能的ですけどね。
ま、どこにエロスを感じるかというのはそれぞれの感性の問題なので一概に言えませんが、でも、これを過激性描写目当てで見に行ったらすっごい肩透かしを食うと思います。


王佳芝が肉体的なつながりを重ねることによって易先生に想いを抱くようになるという設定も、それを「快楽が愛に変わってゆく」みたいな、”女は子宮でモノを考える”的なくくり方でとらえてしまうのは危険だと思います。それは男の発想だよねw
女全般がどうだかは知りませんが私が思うに、女というのは相手の男とつながりを重ねれば重ねるほど冷静になるものなんじゃないでしょうか。視界がどんどんクリアになる、という感覚。「男女の関係を乗り越えたところにしか、男女の真の友情は成り立たない」、ってのが私の持論ですが、女は性交くらいでごまかされないと思うんですよ。そういう淵に堕ちこんじゃうのは男の専売特許なんじゃないの?
「敵だって人間。立場が違っても人間同士の感情の交流は存在する」というアンリーの意図はしっかり見えますが、それと同時に私が感じたのは、互いの必然、みたいなものです。
王佳芝は肉体的なつながりを重ねることによって(=易先生の実態が見えてくるにしたがって)、彼と自分がとてもよく似ていることに気づいたのだろうと。そこになんともいえない通じあいがあったのだろうと。



「国のため」に使い捨てにされる駒としての存在。駒として、命を賭けざるを得ない状況。
もう後には戻れないところまで来てしまっているという悲壮感。理解者のいない孤独。
二人は鏡に映る自分自身を確かめ合うような感覚に陥っていったのかもしれない…という想像もできるように思いました。
狂おしい交わりは、むしろ自慰行為のようにも見えます。
ヤってもヤってもどこかが空虚でとても寂しい。
エキセントリックな体位も、「もしかして刺激が空虚を凌駕するかも」と思って必死でやってるように見える。悲しい。偉仔のイキ顔もとんでもなく悲しい。ミジメ。
性行為に伴う「実感」というものは、心理的な前戯の積み重ねがモノをいうと思うんですよ。
刹那的な交わりは、だから実感がうすいのではないか?
過激な交わりよりも愛国青年の3年越しの万感の想いを込めた不器用なキスの方が(時期を逸していたということを差し引いても)よほど実感を伴うのではないか?と思うのですが如何?


長くなったので、続きは明日書きます。