小休止

かもめは飛びながら歌を覚え、人生は遊びながら歳老いてゆく。
遊びってのはもうひとつの人生なんだな。
人生じゃ負けられないようなことでも遊びでだったら負けることができるしね。
人は誰でも遊びって名前の劇場を持っててね、それが悲劇だったり喜劇だったり、出会いがあったり別れがあったりするんだよ。
で、そこで人は主役になることもできるし、同時に観客になることもできる。
人は誰でも二つの人生を持つことができる。
遊びはそのことを教えてくれる。
寺山修司


こちらにステキな映像が。


テラヤマのCM。
某所で紹介されてたので観てみたら、不覚にも涙がこみあげた。
フツーのことを言ってるだけなのに、寺山修司が言うと見事な「詩」になる。
やっと巡り会えた、と思える無二の「詩」に。
詩人というのは、そういうものなんだと思う。
生まれながらに詩人だ。後からなれるものではない。
詩集を出していれば詩人かと言ったら大間違いなわけだ。


真の詩人の言葉は、紙を離れてどこにでも住み着く。
紙の上にしか留まれないものは、燃やされて跡形もなくなる。
大半の書物は屑である。
燃やされるのを待つだけの、屑だ。
紙に書かれた自己満足がそんなに嬉しいか?
そんなにエライのか?
紙のムダを嘆くこともしないのか?
私が紙に残す言葉も、屑ばかりだ。
困りもの。
言葉が私なら、私自身が屑ということになってしまうではないの。


語られなかった言葉の中にこそ、ほんとうのなにかがあるような気がしてならない。
私はいつでも胸の中に小さな鳩を飼っているのに、それがどれだけ暖かいかを、
いまだに
だれにも
伝えられない。
「詩人でない」ということは、そういうことなのだろうね。


詩人として生まれたかった。