「coyote」のP・オースター(といいつつ柴田元幸)特集


昔からポール・オースターの小説は好きでよく読んでいましたが、ここんとこある事情で(ってのは、シューリスの新作がオースターが脚本・監督をつとめる作品だからってことなのですが)また、以前読んだものを読み直したりしてるところです。
ホントはペーパーバックで出ているこの映画の脚本(The Inner Life of Martin Frost )が読みたいんだけど、今、原書読む精神的余裕とか時間とがないのでね、これは冬のお楽しみ、としてるの。
そんな折も折。
coyote」の最新号の特集が、P・オースターとその訳者・柴田元幸先生の特集だったのを発見!
柴田先生による「シティ・オブ・グラス」の新訳(すごい!)や、対談、NYお散歩レポなど、とてもステキな特集号で思わず即買いしちゃいました。
そういえば、NY3部作でこの作品だけが柴田訳ではなくて、なんだか不思議な気がしていたのです(別に不思議でもなんでもなくて単に版権の問題で先に他所にとられちゃってただけでしたが)。
読み比べたわけではないのだけれど、やはり柴田先生の訳はすごくイイですね!いつもながら詩的でグッときちゃう。
オースターの世界観がきっちりと明確に想像できる文章です。ちょっとした言い回しがすでにNYの空気を孕んでいる。


これはオースターの小説だけれども、オースターだけの小説でもない。
この美しい、ウットリするような日本語の語り口は、柴田先生のものだから。
そして私はこのとんでもなく優秀な「口寄せ」を通してしか、オースターと対峙することができないからです。
言語というのは不思議なもので、それは単なる情報伝達の記号という域から、深遠なる哲学の域まで幅広い機能を内在している。(この小説のテーマのひとつもそういうところにある)
翻訳という作業一つとっても、そこに書いてある内容を訳出するのと、作家の世界観を理解し共有し、同じ詩がその胸に流れている人がそれを母国語に変換してくるものとは全くその存在は異なるわけです。あり方が違う。
言葉というのは変化する。オースターの言葉を借りれば、「絶対不変の単子(モナド)として、存在しているわけではない」。常に移り変わりゆく想像の可能性を抱えている。
ゆえに、どんな言葉をそこでチョイスし、どう組み合わせるかというごくコンポジショナルな行為の結果、使われた単語以上の、そこにしかない深い世界を表現することができる。それは未知数のマジックです。
それ(その無限の表現力)が言葉というもののチカラなのだ、と理解することが、文学への第一歩なのかもしれない。
そんなことを、改めて教えられたような気がします。


柴田先生とオースターの対談は、最高の知性同士がぶつかり合うエキサイティングなもの…とはなっていなくて(笑)、普通のオジサン同士の話みたいで、とてもホッと心安らぎます。
堅苦しい難解さとは無縁なのに、核心的な部分に立つ安心感に支えられている。ホントの知性は難しい言葉で人をはぐらかしたりはしないのだと思う。
そういったごく自然なありかたもこのお2人の良さの一つだと、私は勝手に思ってます。
シューリスのおかげでこういうところにも戻って来られたような気がする。
「全てはつながっている」。
行くべき場所はおのずと決まってるのかもしれない。
安心してていいような気持ちになる。