王家衛が聴いていたオペラ

「ノルマ」「トスカ」「マダム・バタフライ」の3っつのオペラに触発されて「2046」は生まれた、という噂を聞いたことがあります。
本当かどうかは知らない。けれど、カーワイの映画は、どこかそういうのもありだという気がする。
この人の中には常に「物語のように」音楽が、流れているのだな…と思うから、創作の起点が音楽から始まっていてもちっとも不思議じゃない。


私にとっても、音楽は物語を生む肥沃な土壌です。
ま、私の場合はそれを具現できず、多くは妄想にとどまるのみ、ですが(汗)。
そうやって聴く音楽は、音楽であって音楽ではない。
音楽が手段に堕ちてしまっている、というのは承知の上、です。
クラシックにハマってからしばらくの間、音楽を音楽として(何の物語も背景もなく、要するに言語的映像的なものとは切り離して)聴く悦びってものを感じていたのだけれど、私は基本的に音楽を音楽として聴くことには慣れてないド素人なんだなぁ…と、時々痛感します。
身近に音楽的な人間(って言い方もどうかと思うが)が多いので、自分の聴き方の「不自由さ」は、すごくよくわかる。
どんだけ音楽を聴いてても、聴き方が違う限り本質的にはやってることが違うんだろうね。
きっとカーワイも音楽的な人間ではないのだと思う。ものすごく言語的な人なのではないか?
その似通った心の在り処に、私はどこかホッとする。カーワイの映画が気になる理由は、そこだと思う。
あのヒトは私に似ている、という親しみと、それゆえの倦怠と。


音楽や映像をあれだけ駆使しながらも、彼はどこまでも「言語的」です。
言語的な人間はことばの可能性と限界を誰よりもよくわかっている。
その、寂しさも。ことばを媒介にした世界は孤独だから。
言葉は結局のところ自分にしか通じず、自己対話のうちに時は過ぎる。
カーワイの映画のテーマのほとんどが「伝わらない想い」であるのは、何よりの証拠かな。
でも、彼の作品は孤独だけど淋しいわけではないのね。それはびっしりと敷き詰められた自己対話があるせいだと思う。
人はみんな、独りなのよ。どんなに愛が溢れていても。でもそれは「不幸」じゃない。あたりまえなのです。
人間というものは、みんながそう。誰にも言えない告白を、自分の胸の洞(うろ)に囁く。
そういう感覚に対する共感は、すごくある。


物語を書き始めると、書いている物語によって聴く音楽が変わってくる。
ちょっと前まで書いてた物語にはスピッツしか合わなくて、毎日私はスピッツを聴いてたけど、いまはもう全く聴けない。今書いている物語は違うものだから。もうしばらく聴くことがないだろうとさえ思うほどに。
今は60年代から70年代初めのフォークばかり聴いているのだけど(ホントにもう、心がワサワサしてたまりませんよ)、平行してクラシックは今までどおり聴いてます。余裕がある限りは。
クラシックを聴いていると不思議と心が自意識から(それは言い換えれば言語的世界から)開放されるんですよね。
気持ちがとても楽になる。音に身を任せる心地良さを感じます。そういうのをあらためて感じてます。
こことは次元の違う向こう側に、光が垣間見えている。そんなイメージ。



こちらは「2046」にも使われていたオペラ「ノルマ」のアリア「清らかな女神よ」が入っているアルバム。昨夜から聴いてます。
映画に使われていたにも関わらず、映画のイメージはあまり蘇ってこない。
ただ、ワンシーン、屋上のシーンが心に浮かぶ。てか、あの屋上そのものが。
この映画の中で、たぶん私が一番好きなシーン(絵、というべきか)。



このアルバムには他にもオペラアリアの名曲がたくさん入ってます。お徳盤だね。
ただこのCD、ダイナミックレンジの幅が大きくて、非常〜〜に聴きにくいです。
クラシックにはありがちですが、これはもうどんだけかっつうレベルかも。
最初のピアニッシモに合わせて音量調節すると、途中のフォルテで耳が裂けそうな大音量になる。フォルテに合わせると、最初数分無音に近い。どうしろと…。ムダに疲れます。