謎めいた写真から生まれる物語

最近、書籍に対してケチ臭くなってて、新刊ハードカバーなんてよっぽどでないと買わないんですけど、珍しく即買いしちゃったのが、コレ↓

幕末 維新の暗号

幕末 維新の暗号

作者も初めて知る名前なんですけど、有田芳生さんのブログ「酔醒漫録」で、「抜群に面白い」と紹介されていたのを読んで、興味が湧いたのです。
読んでビックリ。
久しぶりにドキドキするミステリーでした。
ネタバレはできないですが、いってみれば日本版「ダビンチ・コード」ですかね。
歴史ミステリーには目がないのですが、ここまで「危険な」歴史ミステリーは今まで読んだことがありません。
かつて読んだ中で、この系統の「危険ブツ」は井沢元彦の「隠された帝―天智天皇暗殺事件 (ノン・ポシェット)」がありますが、その何十倍も世間の反応はキビシイだろうと思いますねぇ。
かなり微妙な問題を扱っているってことで、読後、他の方の感想を見たくてネットを廻ってみたのだけど、発行部数に比して、ブログやメディアサイトでこの本に対して何かコメントする人があまりいないんですよね。
そういうところからも、この本に関して何か言うのはマズイんじゃないか?と多くの人が判断していそうなのが、なんとなくわかります。
「面白かった」なんて書こうものならメンドウクサイ人がやってくるんじゃないか、とか(汗)。
私も、ホントは昨夜感想をUPしたんだけど、ちょっと考えて一旦は引っ込めたんですよ。
でもさ、よく考えたらそれってヘンでしょう?
推理小説を読んで面白いと思った。それだけのことがブログに書けないなんて、やっぱおかしい。
確かにとんでもない「タブー」を扱っているのだけれど、でも、あくまでもこれはフィクション。小説の愉しみを出ないものです。
分析が荒唐無稽!という意見もあるようですが、じゃぁ荒唐無稽な推理小説に目くじらを立てているのはなんでだ?ってことになる。
こじつけでも荒唐無稽でもいいんですよ。この小説の中で面白く完結していれば。
事実と合っている必要なんてそもそも無いでしょ?(事実と合ってたら実際、とんでもなく大変なわけですしね)
小説の中で破綻が無ければいいわけです。
だから、「ウソばっかり」「デタラメ並べるな」という批判は小説の批判としては的外れだと思います。
「不敬」というのもどうなのかな。
そういう感覚は読む人の価値観によって変わってくると思うのでなんとも言えないけど…私は写真集やお言葉集を買うほどミーハーな、そして、その成り立ちを卒論の題材にするほど硬派でもある皇室ファンの一人ですが、この小説に特に「不敬」なものは感じませんでした。(ただ一箇所だけ、昭和天皇に関する記述に不愉快なものがあったけれど。)


ところが、今日になってわかったのですが、「不敬」云々とか「タブー」だとかいうこととは別に、この小説に関しては、作者の創作姿勢に対する批判ってのもあるらしいんですよね。「盗用だ」というものです。
この推理小説の元になった学説って、(私は個人的に初耳でしたが)すでにいろんなところで言われている有名なものなのだそうです。
もちろん一定の研究も進んでいるわけですが、作者はその研究者たちの功績をオイシイところだけ拾って小説にしている、と主張する方達がいます。
ご指南を受けた先生の研究をも無許可で載せている、と。
これは、当の先生ご本人がこちらでこと細かに書いてらっしゃる。


もしこれが事実だとしたら、そりゃちょっとどうなのかなぁ?って感じがします。
たとえば出典明記の義務を怠っただけだとしても、当事者としては「盗用」と言いたくなるでしょう。
大学教授の研究論文では、その主張は巷間に渡りにくいですが、こうしたエンタメ(推理小説)となれば、学説は易々と大衆化します。
だからなおさらのこと、出典明記は絶対必要なわけですよね。
それを作品化し書籍として売って印税を得るのは、ブログなどで無断引用するのとはリスクの大きさが違うのは明らかです。
一方的な意見だけでは判断できかねますが。


ま、そんな感じで、いろんな問題を抱えているらしいスキャンダラスな作品で、作品そのものをどう思うかはそれぞれでしょうが、それでも私はこれは一読の価値があると思うのですよ。
この本がきっかけで今まで全く知らなかった世界の読み解き方を知ることができたし、とにかくストレートに面白かったので。
小説は、おもしろくてなんぼです。
ぶっちゃけこっちには学術なんて関係ないし。
小市民的なあくせくした日々の中で、ちょっとした息抜きに読む小説がトンデモだったとしても、だからなに?ってもんです。
それに、真面目な話、公式の文書では歴史のホントのところはわからない、という事例がいくつもあるかぎり、あらゆる想像は検証されるべきです。というか、検証する自由は誰にもある。(そしてあえて言えば、学術というのはその足がかりを提供するために存在するのだと思うのです。要するに、万人に提供されるべきものだと。だから研究に国の補助金が出たりもするのだし、そういう公共性を含んだ部分が個人の創作とは異なるのでは?)
けれど、誰もが検証が上手いわけではない。自分が見てもいない世界のことに対して、完璧な検証なんてありえない。
いろんな人がいろんな切り口で考えてみるのが健全なあり方であって、これもその一つだということでいいんじゃないでしょうかね。
この小説が検証に失敗していたとしても、こういう謎がある、というのを知らしめるという見地からすればすごい功績を残しているわけですし、至らない部分では次代への課題も提起したのではないでしょうかね。