母の日に想う

坊やを連れて外に出ると、いろんな人から声をかけられます。
娘が小さかった頃もそうだったけれど、その時とは明らかに違うのが、声をかけてくる人に「おじいさん」が多いということ。
ウチのボクちゃんは「おじいさんキラー」なのだw
おじいさんたちは公園で、街角で、カフェで、坊やを見かけると「可愛いねぇ」と言いながらニコニコと近寄ってくる。
「ボク、いいねぇ。お母さんと一緒で、いいねぇ。」


そう言う時のおじいさんの顔を見ると、私はセツなくて泣きそうになる。
その人が、ウチの坊やに自分の幼い日を重ねて見ているような気がしてならないのです。
でもって、私に対しては遠い昔の自分の母の面影を重ねているのかもしれない…と思えてしまう。
いやいや…もしかしたら自分の子どもの幼い頃を見ているのかもしれないけれど…
いずれにせよ、もう何十年も昔に過ぎて二度と戻らない日々が、そこに幻のように立ちのぼってくる。


そのおじいさんは、何十年か後の、ウチの坊やのように思えます。
私には絶対に見ることが叶わない、はるか未来の坊やの姿です。
神様は、年をとった坊やに逢えるかのような錯覚を通して、私に大事なことを教えてくれるのです。
人生はあっという間。
サヨナラばかりが人生だ。
でも、愉しかった記憶は、珠玉。年をとるたび輝きだす。
そんなふうないろんな感慨を抱えて、でもまるで何事もないような優しい顔をして、おじいさんは佇んでいる。
セツナイような優しいような懐かしい気持ちを、私はしばし、見知らぬおじいさんと共有するのです。
こんなことがあるたびいつも、私は心の中で祈ります。
「長生きしてね。元気でいてね。どうか幸せに。」
そう思いながら、また涙ぐんでしまいます。
まるでおじいさんのお母さんになったような気持ちで。


私が「母の日」に想うのは、自分の母のことよりも、自分が母であること、なのです。
それはたぶん、私が今、母として真っ只中にいるからかもしれません。
その底知れぬ歓びと、尽きないセツナサに、日々翻弄され、日々感謝しています。
その思いは、時を超えて自分の母にも通じるし、そのまた母にも通じるし、どこかの見知らぬおじいさんのお母さんにも、果ては聖母マリアにも通じるのです。
全てのお母さんに、乾杯!