なんでもいいから書いたが勝ちだ!

美味しい食事を食べるたび、食べ終わってから「写真を撮っておけばよかった」といつも思う。
ブログに載せられたのに、と。
目の前から消えたばかりの見目も美味しいお皿を思い出し、もはや二度と戻らない時間を思う。
後の祭りである。
この「祭り」は毎度毎度のことで、要するに私にはそういう才能(何かを記録に残す才能、とでもいうか)がまるでないんですよね。
てか、ブログ用の写真をいつも忘れずに撮れる人って、私にしてみたら奇跡のようだよ。すごいね。
心のどこかで「食事の時までブログのこと考えてるなんてどうなのよ?」と嘲笑しながら、でもその反面、記録をつけていけるマメな人を羨ましいとも思っている。
人生ってもしかしてそういうことの積み重ねなんじゃなかろうか。
記録や記憶を多く残したほうが、たとえ同じ人生だとしても、豊かな気がします。
だって、記録がないとやはり忘れてゆくからね。
せっかくの、過ごしたはずの私の時間が、具体的に見えなくなってゆく。
生きながら少しずつ死んでいっているような気さえする。
現に私はすっかり昔のことなんて忘れてしまっていて、「それでもいいのだ!人間は記録のために生きるのではない!」なんて自分としては決然と思っていたのだけれど、ふと気づくと、不確かな記憶の狭間でついこの間生まれたばかりのような後ろ盾の無い心細さを感じたりしているのです。
もちろん記録ばかりに執心するのも本末転倒ですけど、記憶だけでなく、記録も欲しいなぁと、だんだんと思うようになってきました。
私はもともと自分のことがあまり好きではないタイプの人間なので、自分の記録だったらいらないや、と思っていたのですが、子供が成長してゆくにつれて、その記録は絶対にあったほうがいい!と思うようになったってのもあります。
自分のことだって、今はあまり好きじゃないけど、いつかとても愛しくなるかもしれない。だから投げやりになったらいかんなぁ、とも思うのです。


人間なんて誰もが早晩死んでしまう。
アナタも私ももうちょっとしかここにいられないよ。
儚くも限られた時間しか持ち得ない頼りない存在なのです。
人生とは、生きた日の積み重ねでしかないわけで、しかもその一日一日は確実に去り行く。記憶からも。
だからきっと、なんか残しといた方がいいんだろうな、と思う。
ただの1行しかない日記だったとしても。
短い詩や、一枚の写真であっても。
それは生きた証。今日という日が存在したしるし。
一篇の詩には人生があるし、一葉の写真には物語がある。
それを誰が、いつ、どこで見るかもわからないけれど、誰にも見られずに時を重ねるのかもしれないけれど、残しておけば、きっと何かが…豊かな何かが、残るような気がします。
ブログに日記書いてるヤツなんて、露悪趣味みたいで品が無いよ、なんて、こないだまで鼻で笑っていたんですけど、よく考えてみりゃ、それってヘンな自意識過剰なのかもしれない。損なプライドだ。
どうもブログは他人に読まれるというところから、「自分語りは恥ずかしい」という気持ちがあるんですが、そう思うほうがよほど自意識過剰であって、本当はブログの本質ってごく個人的な日記にあるような気もしてきました。
だってそれこそがオリジナル、でしょ。


ブログに書くことで続けられるなら、それでいいじゃん。
人に公開することで「書く」モチベーションを維持できる人もきっと多いだろうし、そもそもブログの日記はノートに密かにつける日記とは機能が違うので(他人に読まれるべくしてそこに存在するわけで、それなりの自己規制もあるのが当然という意味で)、それを露悪趣味とは一概には言えない。
ブログに日記、ってのも、新しい現代の記録の形、なんだろうなぁと思うのです。
バカにしたもんじゃないよな、と。
これをバカにしてたら自分がバカを見るかも、と。


そんなわけで、最近はできるだけマメにブログを更新するようにしています。
ブログに対しては、懐疑的になったり、批判的になったり、自信がなくなったり、でもやめられなかったり、いろんな感情の振幅が伴うのですが、それ自体がここ(ハンドルネームの世界)で生きているということなのかもしれないとも思えます。
ま、でも、ここに何かを書いたからって、「書いた」つもりにはならないように心しておりますよ。
ここに創作は無い、という自覚は忘れずにいたいと思います。