遠い恋の記憶〜チェロ・ソナタ聴き比べ

昨日の続き。
愛しのショスタコーヴィチのチェロ・ソナタですが、私は以下4つの音源をとっかえひっかえ聴いています。
どれも違うのですが、どれも好きなところがあって、どれを聴いてもそれぞれの世界にもっていかれます。
気分によって聴き変えることができるところが、この楽曲の持つ底力でしょうかね。
どう聴いても美しく、心躍る。


■ドミトリ・ヤブロンスキー&エカテリーナ・サランツェヴァ(ナクソス


この曲を好きになったのは、この音源のおかげです。
まず最初に気に入ったのがこの演奏でした。私の中ではこれが一番、無理なく聴けます。
最初に聴いた&気に入ってヘビロテしていた…ということで、単純に「刷り込み」されたってだけのことかもしれませんが。
丁度、宮田大くんのチェロ・リサイタルの前だったので、予習のつもりでしっかり聴いた、というのも良かったんでしょう。
これ以前にもロストロポーヴィチブリテン(だったと思う)のを聴いたことがあったのですが、その時は特に気に入ることもなく、スルーな感じだったんです。(この音源はPCに入れたはずなのですが、行方不明に。)
その後、作曲家の本人演奏盤などを聴いて、印象が全く違うので焦りましたが、いまだにこのアルバムは、私の中ではすごく「スタンダード」な感じの位置づけです。
チェロが主役で、ピアノが伴奏に徹しているといった感じが強い演奏ですが、その控えめで堅実なピアノが安心感を与えているように思います。
チェロの音も、好きです。丸くて、伸びやかな響きがして。


ヨーヨー・マエマニュエル・アックスソニー


実にアメリカーンなカップリングですが、演奏はアメリカンではないです。
とにかく遅いっ!
この4枚の中ではとりあえず最遅。1楽章は13分30秒を超えます。
ちなみに一番早いのはショスタコ本人の演奏で、10分53秒。(これに関しては後述。)
10分程度の曲で3分も長さが違うって、そりゃもう、別物って感じですよね。
3楽章に至るとなんだかもう泣けてくるくらい遅い。
遅すぎてまるで前衛音楽みたいになっちゃってます。
ヨーヨー・マのチェロはこれでもかというほど、めいっぱいビブラートをかけて音の続く限り引き伸ばしますよ〜みたいな感じ。
でも、すごっっくキレイ。
音質もきれいだし、とにかくチェロとピアノの絡みがものすごくキマってる。音の重なりが、美しいです。丁寧に丁寧に…という感じで演奏されている。
4楽章は特にこのコンビネーションが揃っています。うっとりします。
パッショネイトは感じられないのですが、静かに沈滞してゆく心があり、あまり刺激を受けたくない夜などに聴くのに合ってますかね。


■ハレル&アシュケナージ(デッカ)



私の”第2黄金コンビ”(第1黄金コンビはもちろん、ボロちゃんとパールマンですよ)の音源です♪
えーと、この二人の演奏はあまりエロスがないので、なんというか…お嬢様向きですかね(←って、意味不明w)。
ボロちゃんのピアノはポロポロしててすごくロマンティックです。硬くなくて、自在な感じがします。
ハレルのチェロも、ゴリゴリしてなくてまろやか風味なので、全体的に優しい印象になってます。
1楽章はちょっと軽い感じで情緒に欠ける気がするかなぁ。
でも、以後は歌い込みが濃厚でロマン度が高いです。
聴き所は3楽章ラルゴの朗々とした歌い上げ。豊かなふくらみをもったチェロは圧巻です。


ロストロポーヴィチショスタコーヴィチ(EMI)



とにかく速いです!最初聴いた時はちょっと唖然としました。
ショスタコーヴィチの自演というとせっかちで転げるような演奏、というイメージありますが(って、私がそう思ってるだけ?)、これもまさにそれです。
で、私が思うにロストロポーヴィチって…ちょっとモッサリした悠長な弾き方する人なので、なんだか二人の呼吸が合っていないのを感じます。ロストロがやっとついていってるような(チェロ・ソナタなのに、チェロがピアノに気を遣いまくってる気がする)。
でも、私は文句なくこの盤が好きです。だって、なんといっても本人が演奏しているんですからね!
それは全てを凌駕します。たとえどんな演奏でも、です。


驚いたことに、この曲のテンポ設定の早さはどうやら意図して設定した音楽的なものではなさそうなんです!
ロストロの証言では、


「この曲を録音した際、私たちはどちらかというと速いテンポで何楽節かルバート部分を弾いた。その日は天気がよく、ショスタコーヴィチは郊外に行って人に逢うために急いでいたからだ。」


という話なんですよ。
要するに自分の都合で早く終わらせたかっただけ?!
ぶひゃー、ミーチャw
でもね、でもですよ、この作品を作った当時のミーチャはまさにその「急いた心」に支配されていたんですよね。
だからこそ、の臨場感が、この演奏には溢れているようにも思えるのです(すっごいご都合解釈だけどっ!)。
ここで、昨日書いた書簡の話に行き着くわけですが、あの時のミーチャも、ものすごく急いていた。
自分の情熱に翻弄されるように、頭の中は恋人のことでいっぱいで、「夜も眠れず」「食事も喉を通らず」「カミツレの花びらで恋占い」までしているのです。
早く逢いたい、早く手紙が欲しい、早く抱きしめたい、早く、早く、早く!!


まぁ、そういうわけで、この57年の録音も図らずもその気持ちが再現されたような演奏だったのだ、という妄想をしてみるとさらに楽しんで聴けます。
いずれにせよ、宝物のような演奏です。


評論家によってはショスタコーヴィチは恋愛沙汰になると作曲に「逃避した」と言いますが(だから、このチェロ・ソナタに作品としての熟度が低いと判断している向きもあるようですが)、それはちょっと違うような気がします。
彼はいつだって作曲家であり、作曲家であることは彼の基幹で、逃避のしようもないような気がするのですが。


それにしても。
この盤に関してのショスさんの行為は論外かもしれませんが、どうして作曲者本人が演奏した音源があるのに、それとは全く違った解釈での演奏ってのがあるんでしょうかね。
「必ずしも作曲者の自作自演には縛られなくていい」という人がいるけれど、そんなもんなんでしょうか。
確かに、自作自演とはまるで違ったアプローチで演奏しているものが、妙にステキだったりするってのはありがちです。
でも、そしたら作曲家の想いや音楽の個人性というものは、どうなってしまうのかなぁ。
よくわかんない問題です。
受け取る側のあやふやで千差万別の感性と、作曲者の唯一無比の感性と、どちらを優遇するのか?
演奏家の皆さんは、こういうところから解釈しないといけないのか、と思うとタイヘンですねぇ。