私の中にある二つの言語・続き

昨日書いたことはべつに悩みでも苦しみでもなくて単なる模索、試行錯誤の一つです。
(「繰り言」と書いたのは、「しつこいけどごめんよ」くらいの意味で、「愚痴」ってことではないですよん)
私はいつも、とりあえずは前向きなので、自分なりにより良い環境にたどり着ける方法を求めてしつこく転がっていくのです。たぶん。

「書く」ということ (文春新書)

「書く」ということ (文春新書)

石川さんの著作では、なぜキーボードで創作ができないか、というのが実にわかりやすく説明されていました。
今までいろんな作家や文化人(その多くは私の親世代)が「文章は手書き原稿で書かなきゃダメ!」ということを言ってて、でもPCの申し子のような私はそれを大いなる反発心をもって聞いていたんですよね。
文章作るのに自筆かキーボードかなんて関係あるわけないじゃん?アナログ人間のヘンな自意識じゃね?それとも特権意識?くらいに思っていたんです。
だって、誰も「キーボードでは文章が書けない」ことをきちんと説明できていないんですから。説得力ない。
たぶん本人たちも理屈でわかってるだけで、はっきりと「実感として」は、わかっていないんでしょう。キーボードで育っている世代でもないでしょうから。


石川さんはこれを書家の繊細さをもって、見事な説得力で示しています。「ああ、やっぱりそうか!」と、目の前が晴れる感じです。
そして、私はこれを実感として学んでいることにも気づきました。
10年間かかりましたが。
というより、10年かかって私はこの(ネット)世界の言葉を覚え、その発生過程が自筆の文字で表現される言葉とは違う言語であることに気がついたのです。



「書くことの痛み、無自覚の意識に目をつむった文章作成機(ワープロ)作文は、どのようなことでもどのようにでも発想できる幅が広がる。奇想天外の世界が作者の自省をくぐらずに生まれることになる。(中略)鉛筆や万年筆では、とうてい書きえない詩や小説が、文章作成機によっては可能になるということはつまり、この一点一画を積み上げている書字=筆触の現場における、肯定と否定、また反芻と推敲、つまりは思考を欠くことによって生まれた粗略な詩や小説、つまりは擬似詩、擬似小説にすぎないことを証している。」(石川九楊「「書く」ということ」より)



私は子どもたちに絶対にゲーム機を買い与えないし、厳禁にしているのですが(理由は、創造&想像力が失われるからです。ゲームは子供のするものではない。仕事に疲れた大人が、「脳みそを休めるために」する娯楽だと思ってます。ウチは大人もゲームはしませんが。)、あろうことか自分が毎日手にしている、まさに自分の身体の一部のようにさえ思っているPCが、自分の創造力を奪い続けていることに、ずっと気がつかないでいたのです。
私は今さらPCを手放せませんが、それでも、今後ここで何かを作ろうとするのはやめました。
ここ(PC)で作れるものは、この世界でしか息ができないものなのです。
でも、それに関しては、私は自分が大いに創造的であったと今でも自負しています。小説も、花花も、誇りです。


そして(これが一番大事なのですが)、いまこうして書いていることを、「書いている」とは思わないようにしました。
これは、「話して」いるのだと、しっかり認識しよう、と。
もう一つの言語を得た喜びと愉しさでもって、「話そう」と。(ま、これからも便宜上「書く」と表現しますが、意識としては「話す」ととらえよう、ということです。)