1週間ぶりに出てきて繰り言

ブログを書かない日というのはあっという間に過ぎますね。
一日というのは短いものだけれど、1日よりも1週間がさらに短い気がするのはなぜだろうか(呆)。


ブログを書かなかったのは書く気分にならなかったってだけのことなんですが、書く気分にならなかった原因はいろいろあります。
ここんトコ、ブログに文章を綴り続けることで、自分の中の創造力(「詩」みたいなもの、といったらいいか?)が、どんどん痩せていくような気がしています。
私の創造力はいまやジリ貧です。
ジリ貧になった原因のかなり大きな部分を、ブログが占めているような気がするんです。
ブログに書いている「文章」ですが、これは厳密にいうと切り貼りコラージュのようなもので、ノリとか萌えとか自慢とか愚痴とか…そういう単純な情動に対して「反射」的にその場その場の感覚を書いているに過ぎないんだと思うんですよ(私の場合は、です)。
この「感覚」だの「反射」だのってのがクセモノで。こればかりに頼って生きていると、たぶん馬鹿になるんじゃないかなぁと思う。
反射だけでは、人間、なにも創造できません。
それなのに、私はあまりにも「反射」に慣れてしまったのではないか?と思うのです。


世の中、ブログ流行りで、今や「ネット族総評論家時代」の様相ですが、個々人の「知」はむしろ底が浅くなっているような気がします。
一つの意見や感想を言う時に、そこにあるのがオノレの狭い経験だけで判断する感情的なものでよいの?
あまたのブログで即席評論家さんがおりますが、誰がきちんとした論旨を示してますか?それに関する本を読み、引用したりする人がどれだけいますか?
たいていの人がオノレの狭い判断力だけで好き放題に語っているだけです。「反射」ですよ。


ブログの存在は悪くないと思うし、公に発言できるというそういう「庶民のガス抜き」みたいな場はむしろ必要だと思います。2ちゃんなんかだって大いに必要だと私は思います。
でもそれらはすべて一過性の感覚の集積に過ぎない。楽しければいい、というならそれでいい。でも、それまでです。
彼らが批評だと思っているものはなんら批評でなく、多くは単なる野次馬です。(多くの批評家もそうですが。しかし、彼らはカネもらってるのだから責任が付随する。野次馬ではいられないハズ。)
ま、たかが個人のブログなんですからそれでいいんだと思うんだけど…でも、私はそこのところホンの少しずつでもオノレの創造性につなげてゆきたいなどと考えているので、ちょっとしたひっかかりを放置できず、いちいち立ち止まってしまうのかもしれません。


モノを言う人間よりも、黙って創造する人間の方が、はるかに、はるかに、意味がある。
私の憧れるのはそちら側にいる人たちです。
なのにいつまでも私はここにいる。マウスポテトで言いたいこと言ってるようなユルイ人間です。
しかもそれを、呆れたことに、なにか「書いて」いるとでも錯覚している。
なんたること。
自己嫌悪。
でも、その反面、丸10年もサイトやってるっていう自負もある。私はネットのなんたるかを知り尽くしていて、今さらシロウトみたいにネットの「お約束」に青臭い反論などしたくない。「マウスポテトで言いたいこと言えるからネットやってるんだよ」と開き直る気持ちもある。
10年間、ネットの社会で自分の場所を開拓してきた私は、この世界を愛してもいる。私によく合った世界だと思うし、捨てられない。*1
そこにいるのかいないのかわからない人たちに…というよりなによりも自分自身に向かって話し続けるこの世界は、田舎町の町外れで深夜放送を流し続ける「アメリカン・グラフィティ」の中のウルフマン・ジャックに通じる。
通り過ぎてゆく、パロールの連続。*2
その存在は、私の憧れてやまないもので…たぶん私の基本の心性がそこにはあるのだと思う。
でも私は、そのウルフマン・ジャックのいる町を離れて、自分の夢を掴む為に遠い都会にたった一人で旅立つ主人公の青年・カートでもありたいのです。
ていうか、ずっと私は彼に憧れている。
思春期の頃から、彼は雲の上の人、だ。
彼は将来、作家になる。タイプライターひとつで、世界を創造する。
飛び立てない私は、いつまでも彼が去った後の青い空ばかり眺めているんですよね…40過ぎてもなお。
そのことに、ときどきひどく自信喪失し、ヤサグレた気分になるのです。
そしてそのヤサグレ感は、ブログでは絶対に払拭できない。


ブログに「文章」を書いていれば、それは何かを「書いている」ことに違いなく、内容はともかく、とりあえずそういう…なんというか、文章を通して思考する習慣は(低い程度ながらも一応は)持ち続けられているのだろうと、今まで漠然と考えていたわけですが、実は全くそうではなくて、むしろ「書く」行為からどんどん離れていっているのではないかと、最近とみに感じます。
なので、バランスをとるために(というより、失ったものを取り戻すために)、私はきちんと自筆でモノを書く行為を同時進行しないとマズイ、と思いはじめていて、少ない時間の中でそれをやっていると、ブログを書く時間は(物理的に)あっさりと無くなる。
それでも、自筆でものを書くようになったら、ブログに対する違和感などもだんだん薄れてきました。
PCでは「書けるはずの文章」も書けない、ということに気づきながら、PCにしがみついて頭を抱えていたから行き詰っていたのです。
道具の選択と使い方を間違っていました。互いの領分で使い分けないといけなかったんです。


とりあえず、ここ1週間で考えていたことをなんとなく書いてみました。
まとまってませんけど、こんな感じ。
「書く」という行為は実は凄くデリケートなのだと実感してます。

*1:「「書く」ということ」の中で石川九楊氏が「(きちんと思考し、文章を書きたかったら)ワープロやパソコンを捨てよ」と言っていて、その論旨は大いに理解できるのですが、私はそれを捨てることはできない。これは「もう一人の」私だからです。そのことはパソコン世代で無い人にはまた理解できない感覚かもしれないけれど。

*2:先日のロラン・バルトの話ですが、ここにきて私は自分が勘違いしていたことに気がつきました。ネットというのはエクリチュールでできているのではないんです。いや、見た目はエクリチュール(書き言葉)なんですが、本質はパロール話し言葉)なのですね。幻惑されていましたが、そういうことです。だからどんどん通り過ぎてゆくんです!指の間から砂がこぼれるように!エクリチュールは堆積してゆくはずなのに、ここでは流れてゆく。でも、そこに焦ってもしょうがないんですね。だってこれ全部(無対象の)「会話」ですから。