今年初めての交響曲


今年初めて腰を落ち着けて聴いた交響曲(のCD)は、カラヤンBPOマーラー交響曲5番でした。
1楽章のクドい主題がどうも苦手で、すっとばして4楽章のアダージョ*1だけ聴くという(ありがちな、アホっぽい)行為を繰り返していた曲ですが、ちょっと真面目に通しで聴いてみようか、と思ったわけです。
おかげさまでいろんな発見(当たり前のことに遅ればせながら気づいただけ)がありました。
この曲の構成がベトベンの同ナンバリング(=5番)交響曲「運命」と似ているというウワサは知っていたのですが、今回はじめて自分でそれを確認することができました。
ホントは見えてないのに見えたフリをしていた3Dイラストが、やっと見えた(でも、チラッと)というのに似てるな。
どうりで冒頭、クドイはずですね。動機の形が「俗称:運命の扉叩き」に似てるんだ。あと、最初暗くて後半明るくパーっと終わるトコとか。
それと、4楽章のアダージョはそれだけでもイイものですが、そこにいたる楽章があると、より良いのだということにも気づきました。つながるものがあると深みを増すわけですね。てか、本来そう聴くべきものなんだけども、そう簡単には聴けないところがアレなわけだ。とにかく長くって。
立て続けに2回聴いたら、もうすっごい消耗したね。ヘトヘトだ。
聴いて疲れる、ってのはやはり向いてないのかもしれないと思ったりもしますがどうなんだろうか。(でも4楽章は何度でも聴ける。やはり好きだ。)


ところで、この5番、マーラーが新婚ホヤホヤの幸福期に書かれた曲なんだそうです。
なので、終楽章が抑えきれない歓喜の歌になっている、と見るむきが多いようですが、それってどうなんでしょうか。
私はねー作品と私生活を結びつけてあれこれ解釈するやり方が、ちょっと苦手なんですよね。
作曲者の個人像をつかんでゆくにはそれは欠かせないことでしょうし、音楽で妄想したい人には作曲者の状態を知ることは大事なことです。けれども、純粋音楽鑑賞としては邪道だと思う。
音楽は物語から離れているからこそ、個々の聴衆に物語を与えうるのではないでしょかね。標題をつけないのも、そういうことだし。


作品と私生活は必ず何らかの関わりがあるのは確かだけれど、その関わり方は千差万別であって、幸せの絶頂だから歓喜の曲が生まれるという公式などどこにも存在しない。
私生活が順調だからこそ安心して作品世界に没頭できる人だっている。そこで暗くて重い曲を書いてもなんら不思議はない。
シアワセだとシアワセな曲を書いちゃう作曲者ももちろんいるけれど、そうでない人ももちろんいる。
単純に言って「創作動機の両極」として、私小説作家とエンタメ作家が存在するようなものなんじゃなかろうか。
音楽評論家の中にもそこをごっちゃにしている人がよくいるんで、戸惑うのですが、エンタメ作家の私生活を調べて作品に照らし合わせてみてもあまり意味がないこと(てか、むしろ失礼なこと)のように思うんですよね。


ショスタコーヴィチなどに至ってはそのどちらでもないからまたややこしいわけですしね。
客観的に見たら御用作家であり、穿ってみれば風刺作家でもある彼の真意がどこにあるのかなんて、邪推に次ぐ邪推を重ねてみたってわからない。告白本を読んでみたところでそれ自体が偽書確定だったりして、そりゃもう(笑)。彼が何を思っていたかなんて、まったくもって霧の中。
個人の私生活と作品を結びつけることの危うさをあらためて感じさせてくれる人ですね、ショスさんは。
創作の背景はそんなに単純じゃないってことです。
楽家の個人史は妄想のよすがになりますから、それはそれで絶対に知ってたほうが面白いと思いますが。

*1:ヴィスコンティ監督の「ベニスに死す」に使われたので有名な楽章。一般的にはここだけ拾って聴く人もかなりいる。