「バビ・ヤール」聴き比べ

いよいよテミルカーノフのナマ「バビヤール」まであと3日。あードキドキ。
ウチにある音源は4種類。

バルシャイ:WDR(西ドイツ放送)交響楽団

ハイティンクアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団

インバルウィーン交響楽団

ロストロポーヴィチ:ナショナル交響楽団


です。
今まで聴いたことのある「バビヤール」の、これが全てです。
入手しやすいものから聴いていったらこうなった、というだけですが、工藤さんのショスタコーヴィチ全作品解読 (ユーラシア選書)にあったお薦め盤(コンドラシン、ロジェストヴェンスキー、プレヴィン)を一つも聴いていないので、なんだか不安だったりします(^^;;。
ちなみに一番世の中で支持が高そうなのは、コンドラシン盤のようですね。
ま、名盤らしきものは後の楽しみにしておきましょうということで。


ちなみにこの4枚、気に入った順に並べると
バルシャイハイティンク、インバル、ロストロポーヴィチって感じですかね。(上記ジャケ写の並び順通りです)
普段、私はバルシャイばかり聴いています。
最初にちゃんと聴いたのがバルシャイ盤で、刷り込みみたいなものがあるというのと、やっぱ空気感のようなものがすごく好きです。
爆演ですし。特に2楽章はシビレます。歌手もイイです。
ただ、録音の音がちょっと尖ってて金属的な感じがします。
ハイティンクもとてもドラマチックないい演奏ですが、ちょっと優等生的かもしれません。全体のアーティキュレーションの付け方みたいなものが、少し好みとズレます。
インバルはわりと平坦な感じがしますかね。情緒が薄い、かも。
情緒といっても、なんというか、ソ連っぽさ、みたいなもののことですが。ソ連の匂いがしないの。
一番「オドロオドロしくない」のがコレです。
ロストロはテンポ設定が私の好みじゃないです。ノロマくさくてなんだか勿体つけた感じ。キメが甘い気も。


「バビヤール」を聴く姿勢というのは、政治的な音楽として聴くのか、純粋音楽として聴くのか、どういうバランスの上にたって聴くのかが、わりとそれぞれ違うような気がします。
私はどっちつかずですが、気持ちの上ではあまり政治的な意味を強く感じながら聴きたくないかも?とは思っています。
直接的な政治批判(それは主に詩の内容ですが)が、この音楽の核なのだとしたら、音楽は詩に従属してしまう。
詩の世界や、この曲が扱われた道のりみたいなものを必要以上に強く意識すると、そっちに強く引っ張られてしまうわけで、音楽から乖離していってしまう気がする。
具体的な詩そのものではなくて、そこから作曲者が得た曲想というものが大事なんじゃないでしょうか。
詩は触媒みたいなもので、詩によって喚起された、ショスタコーヴィチ自身の怒り、悲しみ、嘲笑、といったその時代を背景にした情動こそが「核」、なのだと思うのです。それはまるっと音楽そのものの中に入っているハズ。
そもそもこんな暗い曲をあえて聴いているってだけで、ワケアリな匂いがプンプンしますが、私は絵画的コラージュを見るような気持ちでしかこの曲に向かい合っておりませんので、政治的思惑はありません。
私自身に何のイデオロギーもないってわけじゃないですよ。ただ、「この曲を聴く時」は、そこに特別な思想はない、ということです。純粋に「音楽」として聴きたいと思います。


というわけで、理屈に走りがちな曲ですがあえてそう聴かず、感覚で聴くというのがいいかな、と思っています。
歌詞なども、対訳読んでますから一応内容は知っているんですが、あまりつつかない方がいいような気がすんのですよね。自分的には。
ま、つつきたい気も持てないような歌詞ですけど(まともに向かい合ったら気が重くなるので)。


わざわざこんな言い訳めいたことを言うのには、ワケがあります。
この曲を聴いてて思うのは、私の場合「カッコイイ!」ってことなんですけど(そもそもカッコよくなきゃ好きになりゃしませんよ「カッコイイ」というのは音楽を好きになるときの絶対的な基準ですからして)ただ、歌詞の意味や歴史背景を問題にされると、その曲を「カッコイイ」と言ってしまうのはどんなもんかという意識がビミョーに働くんですよね。
ピントがずれているような気になる。
えっとーたとえば、原爆の悲惨さを歌った歌を聴いて「カッコイイ!」って興奮してたらなんだかヘンでしょう?問題意識を持つとか、悲しむとか、反戦の決意をあらたにするとか、なんか他にしなくちゃならない反応がありそうなもんでしょう?そういうことです。でも、それはあまりに「音楽的ではない」とも思うのです。それとこれとは、別なのです。


私にとって「バビヤール」はカッコイイ曲なのです。
そのことは間違いないし、それのみが、私がこの曲を聴く理由なのです。
だからあえて私は「言葉」から離れてこの曲と向き合いたいのかもしれない、ということです。


わかりきっていることですが、言葉というのは全てを限定しますから、音楽との相性はホントのところすごく悪いんだと思います。
言葉で想像するヒトは、音楽に題名がついているだけですでに音楽の本質から離れてしまう可能性を孕んでいます。
言葉によって、音楽を「創造」してしまうんですよね自分勝手に。音に意味を見い出そうとする。
ベトベンの「月光」を聴いて月を思い浮かべる。ホントはなんだっていいのに、月を描いていると思い込む。
でも「月光」の場合はただの通り名で、しかも作曲者のあずかり知らぬところで付けられたものだから、リスナーはそのイメージから逃げることも可能です。
でも、「バビヤール」はそうはいかない。
詩と曲が相克する中で、言葉に引っ張られないようにするのは至難の業です。(えっとー私はロシア語わかんないから、内容さえ知らなければ歌も音の一つでしかないわけですけどね。
ショスさんの真意がどこにあるのかわかりませんが、この曲は「聴くスタンス」からしてかように難しいです。
そういうところで、あーだこーだ考えてしまうのもまた、刺激的なのですが。