「この胸いっぱいの愛を」

金聖響目当てで観ました(^^;;。
普段、コレ系(って?お涙系、か。)の邦画はあまり見ないのですが。
こういうのはなんだかなー・・・とか言いながら、それでも単純な私は号泣してしまいました。
「こんな単純でいいのか。バカ丸出しだ。」という羞恥心をしっかり持ちながらも、泣けちゃって。
私はTVドラマでも、ヘタすりゃコマーシャルでも、すぐにビービー泣く壊れかけの涙腺を持っておりますので、私が泣くことには特に何か意味があるわけでもなんでもないんですけどね。


この映画の泣きポイントは私にとって2つ。
「時間モノであること」と「母子モノであること」です。
清水義範さんや浅田次郎センセイの小説によーく出てくる設定なんですが、いわゆる「タイムトリップ」モノ・・・というのに、私はめちゃめちゃ弱いのです。時間を逆のぼっただけでもう、涙腺が全開です。
そこには死んだはずの誰かがいて、今はない景色があり、自分がまだ子供だったりするんですから。
そしてそれらはやがてすべて失われることを、そこにいる自分はもう知っているんですから。
たまらんでしょう?
せつなくて、果てしなくセンチメンタルでしょう?
もう、涙、涙の大好物です。
それがあるがゆえに私は永遠に「ドラえもん」の大ファンであるのです。
この映画の原作者・梶尾真治氏はタイムトラベルモノが多いSF出身の作家さんらしいですね。
面白いのだろうか?ちょっと読んでみようかしら。てか、この映画に関しては、たぶん(いや、きっと)原作の方がステキでしょう。そんな気がします。
それと「母子モノ」ね。ヨワイ。
これはもう、いわさきちひろの絵を観ただけで涙どわーっと出てきちゃう。
サトウハチローの詩集「おかあさん」とかね。読むと体重減るもん。水分抜けて。


というわけで、たとえどんな駄作だろうが、時間のマジックを使われ、母子エピを使われたらイチコロなコテコテ浪花節体質の私には、この作品は楽しめる(泣ける)ものでした。
状況にはいちいち無理があるし、脚本もボロが多いのですが。
だいたいあんなコンサートありえないし、結婚式シーンは馬鹿げてるし、クドカンエピは陳腐(いらないねー)。
突っ込みどころは満載ですよ。冷めた目で見てしまえば本当にどうってことない作品かもしれない。
言うまでもないですが、泣ける=いい映画、ではないわけで。って、さんざん泣かしてもらっといて言うのもナンですが(^^;;。


期待してたキムさんは、まぁ・・・あんなもんでしょう。てか、今のキムさんのほうが10倍くらいカッコいいです。
彼は少しふっくらしていた方がステキだと思う・・・。あ、指揮姿は優雅でした。
それよりも、ミムラがキムさんに向かって歩いてゆくシーンでは、「ああ・・ここでもしや恋が芽生えたのか?」とか、いらぬ邪推をしたりして、なんだか物語をちょっと外れた気持ちになっちゃいましたよ。
てか、ミムラの二の腕が太い!肩も分厚い。美人なのに、ボリュームが・・・かなりありますね?
子役の子(コトー先生に出てる富岡涼くん)は一人勝ちで演技がお上手です。
あの子は上手いね。なんかもう、存在自体がケナゲなんだよね。
役の存在感の重みを出せるというか・・・お芝居じゃなくなってる気がする。


それと、なんといっても門司という舞台がとても良かったです。
門司は・・・みもしらない遠い世界でした。
私の心象風景に全くない場所なので、日本とは言えども異国のように思えましたよ。
門司の人が私の故郷(海もない、路地もない、坂道もない、サバービアのさらに外側の乾いた風の通り抜ける平野)を見たらそれもまたきっと異国みたいなんだろうな、と思う。
そしてそういうところに育った私と、門司のような場所に育った人とは、なんとなく感性そのものが違う気がする。
こんな映画を見ると、たぶん日本は島国なんだろな・・・と思います。
・・・と、マヌケな事をいうほど、私は見事に海を知らないのです。
海を知らない・・・というのはつまり、そこにある空気や匂いや光も知らない、地面が途切れる場所を知らない、ということです。
日本人じゃないんじゃないかと思うねw
私は自分の心にあるマザーランドのイメージが、門司よりもネバダ州の砂漠や「未知との遭遇」で出てくる田舎町の方が断然近いのです。
てなわけで。
実のところ、この映画で一番印象に残ったのは、門司の町の醸し出す空気と、そこに郷愁を持たない自分との不思議な距離感のようなものでした。