作家の人間性と作品の芸術性はどう関わるか?

「トキメキ&ラヴ」が信条のブログのはずだったんですが、萎えエントリが続きます。夏バテかも(汗)。


今、一部で話題になっている日経新聞掲載の坂東眞砂子のエッセイの件。
これ、思いっきり萎えました。

話題の内容とは直接関係なく、こういうことがあるたびに思うのは、「作家の人間性と作品の芸術性はどう関わるか?」ということです。
共感できない価値観を持っていたり、素行がいただけなかったり、性格が悪かったりする作家がいたとして、でも、作品のデキが良かったら…それは、どう考えたらいいのだろう?
芸術とは、それを生み出す人間の思想・信条・行動・性癖などによって価値が変わるものなんでしょうか?
変わるとも思うし、変わらないとも思うんだけど、それはどうなんだろう本当のところ。


よくクラヲタの皆さんが
「どんな人間だろうが、いい音楽を生み出せればそれでオッケー」
って言いますが、音楽の場合は、そこにある「音」だけを聴いていれば、背後にどんな人物像が立っているかは、ぶっちゃけぜーんぜんわかりません。
なので、指揮者が元・ナチだろうが、性犯罪者だろうが、関係ないっちゃー関係ない。てか、わからない。
だからそんな強気なことが言えるのだろうけども、人間性がモロに作品に表れる小説家の場合はワケが違うのではないか?と思うのです。


小説には作家の人間性如実ににじみ出てくるので、作品を通して作者の姿を見ることは大いに可能です。中には作者そのもの、という小説もたくさんあります。わかりやすい。
自分とあまりに価値観がかけ離れていれば、作品にも共感できなくなるはず。
現に私も、坂東女史の作品は好きなものもあるけれど、強烈に嫌いなものもあります。なんでこんなザラザラと神経逆撫でするような小説書くのか?と不思議に思ったこともある。
まぁ、そんなこともあって、「山妣(やまはは)」で夢中になったものの「曼荼羅道」で見限り、読むのをやめていました。
この作品は、正直、気分悪かった。作者の意図が理解できないし、生理的にとてもイヤなものを見たような気がして、「あ、もうついていけない」と感じる決定打になりました。


彼女の作品世界にはいつだって狂気があふれ出していた。愛など無かった。死が溢れていて、でも、悲しみもない。
ホラーだ、幻想奇譚だ、と思っていたから読めたんですよね。結局そういうのは私にはニガテだっただけです。でも、その狂気は、決して「あってはいけないもの」ではないし、むしろ作品を作り出す側としては、必要なものなのでは?とも思います。
ただそれが、作家の作品世界のみならず、現実にまである狂気だったということが、今回の騒動でバレちゃったんですよね。
あ、リアルだったのね…みたいな。
これがバレるのとバレないのとでは、いったいどこが違うんでしょうか?
バレなかったとしたって、やってたことは事実としてあるわけです。そういう人間だったってことは、バレるバレないに関わらずあるわけで、しかもそれは作品に如実に出てんですよ。気づけよ、読者。って感じ。
それでも、バレたことによって、作品の解釈ってものが変わってしまったりするもんなんでしょうか?
フィクションとリアルの線引きってどこからつくんでしょうね?
ヤバイこと書いてる人間はやっぱりどこかヤバイのかも?くらい思ったほうが無難ですかね?


私はいまだに「山妣(やまはは)」は傑作だと思うし、「桜雨」は凄いと思ってます。あんな小説が書ける女史の小説家としての腕を尊敬してもいる。
でも、その作家本人は、絶対に尊敬できない鬼畜のような行為をし、共感できない主張を繰り返している。
このことにどう折り合いをつけたらいいのだろう…と、困ってしまう。
作品が可哀相だなぁ…などと思ってしまう私は甘いのかな。
作者が嫌いでも、作品を憎むことはできない。
でも、今後、彼女の小説を好きだと公言したら、私は猫殺し(犬も殺してたと判明。しかも雑種のみ!ひでぇ)作家と同じ感性を持っているのだと思われてしまうのでしょうか?
それとも、犬猫殺し作家が書いたものでも平気で読める無神経な人間と思われるのでしょうか?
それはマジで勘弁してくれ…という気分です。


あとね、このことで「裏切られた」と言ってる人。そりゃ間違ってるよ。裏切られたのではなくて、見誤ったんですよ。誰かの創作に接する時はそのくらい能動的じゃないとマズイよ。流されといて「だまされた!」はナシです。
作家の人間性なんてもんは、作品を読んでくうちにうすうすわかってくるのがスジってもんで、気づかなかった自分を責めてちょうだいよ。
私もちょっとだけ、自分の小説の読み方というか、人間洞察の浅さを責めましたよ。「どこ読んでたんじゃワレ。」と。もうそれだけだって萎え萎えだっつの。



正直な話、私は「良き人になろう」という意識が「良き作品を生もう」という意識よりも上位に来ている人が圧倒的に好きです。
つまり、芸術家といえども、芸術至上主義者より、人間として良き人(良き人になろうと、なりたいという志向を持つ人)の方が、個人的には好きなのです。
それはなぜかというと、やはり個人の資質というものは、絶対に作品に反映される、と信じているからです。
芸術は、人間性を離れない、と思っているからです。そして創作は、善性から生まれなければ、とも思っている。
でも、作品中心に考えた時、それは必ずしもあてはまらないのではないか?と思ってもいます。
良い作品を書いている人が良い人とは限らない。すごくイヤな人間だったりする場合もある。所詮創作は「作り事」だ、というのも、もう一面の真実だと思う。
複雑な心境です。
考えるのダルくなってきた。
人と芸術の距離って、どんなもんなんでしょうねホントのところ。


というわけで、迷える子羊に、尊敬する大先生の言葉を。


「あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにするが故に尊い。」

Quotation from 「草枕」/夏目漱石                            

ああ…感涙。このお言葉のおかげで、安眠できそうです。