さあ、予習!ショスタコ攻略月間(1)

9月最初のボロージャ@エヌ響コンサート(9/23)の演目は、ショスタコーヴィチのバイオリン協奏曲1番と、交響曲10番です。
これ、いずれも難しくて敬遠していた曲なんですよ。V協に関しては何度も聴いてはいるのだけど、イマイチ…ニガテ、というかろくに聴いちゃいない。
でも、コンサ前にそういう苦手意識は絶対に払拭しなくちゃいけないし、できれば好きに(せめて愛着が湧くくらいまでには)なれないと楽しめないので、事前学習でそこをなんとかしよう、と思うわけです。


こういうのってクラシックのハードルの高さの一つだと思うんですけど、逆に楽しみの一つでもありますよね。
奇しくも今日手にしたチケクラ9・10月号(いつの間にこれ、隔月になったんだ?)の記事で黒田恭一氏が書いておりましたが、「若干の辛抱を避けて通っていては、いつまでも本丸にたどりつけない」のがクラシックなんですよね。
「何でそんなつらい思いまでしてクラシック聴くの?音楽って楽しむものではないの?」という声もあるでしょうが、それは子供がビールやコーヒーを苦い、ニガテ、マズイ…こんなのなんでわざわざ飲むの?と思うのと同じなんですね。
「若干の我慢」で口にしているうちに、ビールだってコーヒーだっていつの間にか慣れてしまう。で、いったん馴染むとすごく美味しくなったりするわけです。味覚的に、一歩オトナへと前進するんですよね。
クラシックもそういうタイプのもので…手ごわい分、深い。そこが醍醐味ですね。
最初のうちなんて、1曲の長さだけでももうヘキエキって感じだもん、ハードル高いっすよ。その長さが気にならなくなる頃には、いろんなことが見えてくるのだけど、その後も様々な難関が寄せては返す波のように、ひきもきらずやってきます(笑)。


私はかつて、めちゃめちゃニガテだったブラームス交響曲1番を、「かなりの我慢」をして何度も何度も毎日聴きつづけ、見事に「好き」の領域まで引き上げたっつー実績があるんですがwその成功経験は、ちょっと目からウロコでしたよ。クラシックの醍醐味を、ちょっと味わった気がしたものです。
ニガテだったはずの音楽が、いつのまにかスーッと気持ちよく胸に入ってくる瞬間、ってのが、なんというか…イイんですよ。
ぱーっと霧が晴れるような気分、でね。あの感覚をもう一度味わえたら、と思うのだけど。


実を言うとショスタコーヴィチは私にとって最大の難関なのです。
常に迂回し続け、見ないフリして避けてきた存在なのよね(^^;;。
同時に、最大の「憧れ」でもあるのだけど。
と言っても、ショスタコに憧れているわけではなくて、「ショスタコに通暁している人」に対しての憧れですけどね。
ごめんなさい、本末転倒で。
でも、そのくらい、ショスタコを知る者はインテリ!ってイメージなんです。
ショスタコに心から感動できるなんて、うらやましいってことです。自分もそうありたい、と。でも(今のところは)ムリだと思ってるわけ。


私は、演奏家も作曲家もロシア物には目がなくて、チャイコフスキーラフマニノフプロコフィエフという3大お気に入り作家がいるし、前衛的なカバレフスキーや、スクリャーヴィン、ストラヴィンスキーなども面白く聴くのですが、ショスタコだけは、ちょっと別、で…なんかもう、難しさが桁違い!という感じがしてしまうんですよ。
これって、尊敬してる露文学者の亀山郁夫センセイが研究対象としてるせいもあるかなぁ。
毎月、レコ芸の記事(亀山先生の連載「ショスタコーヴィチスターリン権力」)読むだけでもクラクラします。あらゆる意味で(難しいのと、カッコいいのと)。
そんな私でも、ロシア(ソ連)の音楽家を語るときに、絶対に欠かせない人は、といえば、それはガチでショスタコーヴィチだと思っているわけです。
えっとー…音楽的にはもちろんですが、社会的、文化的に…という意味で、です。
ショスタコ知らんとは話にならんよ」と、常に頭の中のもう一人の私が思いっきり鼻で笑いながら言ってるんですがね。
それに、ショスタコのなんたるかを知らないと、ボロージャがこういったプログラムを組む真意もコンセプトも全くわからないまま、実演を聴くことになるんですよね。そりゃあまりにもヌケ作です。どうにかしないと。


というわけで、ショスタコのヴァイオリン協奏曲1番&交響曲10番を集中的に聴き始めました。

続きます。