61年目の夏に

知ることが、義務だと思っていた。
そして考えることが。
考え、考え尽くして、あまりの悲しみとやりきれなさに崩れそうになって、
それでも繰り返し想いを寄せ続けることが。
語り続けることによって、何かが変わると本気で思っていたのだろうか?
そんなものは、でも、あまりにもお題目でしかない、と
いつの日か思うようになった。


私は戦争を知らない。


知らなければ、と思った。あの時代に、あったことを。
けれどもそこにあるのは悲しみと憤りばかりで
私はただただ小さく無力になり、
途方に暮れて、空を見上げることしかできなくなる。
悲しみや憤りでは、何かを生み出せるような気がしなかった。


笑えること。
美しい音楽が聴けること。
思う存分絵筆を動かし、自由な絵が描けること。
誰にも遠慮せず、好きな格好で町を歩けること。
かわいい坊やが、兵隊に連れて行かれずに済むこと。
そんな「あたりまえ」をありがたいと思える感性を持ち続けることが
何よりも大切なのだと思う。
「あたりまえ」は「あたりまえ」でなく
たぶん、必死に守っていかなければ
いつかウソみたいに再び手のひらから零れ落ちてしまう。
これらは、かつて誰かが、自らの命と引き換えにして残してくれた賜物です。


私たちは、彼らを決して忘れてはいけない。
彼らの名前を、知っていますか?その人生を?
それは果てしなく深い海を眼前にするような気分です。
あまりに広大で、もはや計り知れない。
けれど、海はある。そこに、厳然として。
海に向かって、私たちは何を想うのだろう?
追悼、の本当の意味は、そんなところにあるのかもしれない。


この世にどんな悲惨なことがあったかを反芻するよりも、
この世の素晴らしさ、楽しさ、美しさを、自ら気づいて、伝えてゆきたい。
誰かに。
彼らの、子供たち…つまり、私や私の子供や後の世代の人たちに。
喜びがあれば、私たちはきっと、何かを生み出せる。
平和というものは、そうやって生成されるのではないかと思う。
悲しみではなく喜びで、憎しみでなく愛で、どうかこの世が包まれますように。


シューマン:子供の情景

シューマン:子供の情景


今日はずっとこれを聴いていました。
べつに意味があるわけではなくて…朝、たまたま手近にあったCDをデッキに入れたらこれだったのですが、今日の日にすんなりと溶け合うような気がして…なんとなく、リピートして聴いていました。
お気に入りのアルバムです。
特に好きなのが、ショパンの「舟歌」です。ホロヴィッツの「舟歌」を聴いて初めて私はこの曲がどんな曲かがわかったんですよ。
シューマンの「子供の情景」も素晴らしいです。トロイメライ、ここまでステキに弾ける人、なかなかいません。
主観ですけど、器楽独奏(特にピアノの)って、オケと違って、音の「余白」のようなものが多く感じられて、それはそのまま聴く側にとっての「想像の余地」にもなるように思います。想いを仮託するスキがある、といったほうがいいかな。
終戦の日の今日、窓辺から見上げる夏空と溶け合って、その「余地」はさらに広がり、なにか悠久の廣野が胸の中に出現するような思いがしたりしました。
61年目の夏に、黙祷。