同時代に生きて

岩城さんの訃報を聞いてからいろんなことを考えてしまうわけですが、やっぱり一番に思うのはボロージャのことですどうしても(結局そこか)。
岩城さんとたいしてトシも違わないんだもん。「ピアノ弾いてくれ」とか言ってる場合ではないのではないか?指揮する姿を見られるだけでそれはすごいことなんじゃないか…と。
頼みますから長生きしてねボロージャ(涙)。


ウチの弟は小さい時から筋金入りのクラヲタで、中学生の頃はカラヤンが大好きでした。カラヤンのコンサートに行くのが夢でしたが、東京の高価なコンサートにはなかなか行けず…やっとどうにか行けることになった公演を前に、カラヤンが急死。コンサートは幻に…という可哀想な経験をもっています。
なんかそのことをふっ…と思い出しました。
「可哀想」なのは死んだカラヤンではなくて、永遠にカラヤンに会えなくなったウチの弟なんですよね(^^;;。
芸術家というのはそういうものなんだと思う。


昨夜、アシュケナージの来日記録というのを読んでいたのですが、昔…っても80年代とかには、ピアニストとして地方の各所にリサイタルに来ていたんですねぇ。ウチのような田舎にも、毎年のように来てくれている。ウソみたいな話だよなぁ。
高校生の私はいくらだって円熟のボロージャの演奏がナマで聴けたんだよね、気づいてさえいれば。
でも、私は彼の存在など知ることもなく大人になった。こんなトシになってからやっと気づく始末。
タイミングが悪いと思う。
誰かのファンになってタイミングの悪さを気にしたことなど初めてじゃなかろうか?「いい時にファンになった」という例が多かった気がする。バンド好きだった頃も、アメリカ映画スター大好き時代も、香港明星迷の時も。
キーシンだってそうだよ。タイミングは良かった。3年ぶりのコンサートがちょうど発表された時だったし…キーシンは「これから」の人だものね。ここからどんどん面白くなる。すごいステキになる。それをリアルタイムで私は見られる。
でも、ボロージャは?
いや、ちょうどエヌ響にいる時に惚れたのだから、ホントはこれ以上いいタイミングはないのかもしれない。それなのに「遅れた」感があるのは、私が過去の彼にこだわっているせいなのかな?最近急にピアノを弾かなくなってしまったせいなのかな?


アシュケナージに「これから」が無いとは言わないけれど、やはり圧倒的に時間は無いんだろうと思う。
彼はいつも「時間が無い」「余裕が無い」と言ってるけれど、それはファンも同じだ。
私は彼と一緒にトシをとってゆくのを楽しみながら共白髪になるまで見届けることはできない。親の世代の人なのだから。
同時代ではあれど、同世代ではない。
その寂しさは、トシの離れた人のファンになるまでわからなかったよ。


せめてあと何年か…いや、数ヶ月でも早くボロージャに惚れていたら、彼のピアノをナマで聴けた。
「もしかしてこのまま一生、彼のピアノを目のまえで聴けないかも」という不安がある今、このわずかな「タイミング」のズレに溜息が出てしまいます。
パフォーマンスはナマモノで、それを目のまえで聴けるのは同時代人だけに許された特権です。すごく貴重なことですよね。って、こんなことに気づいたのさえ、ここ半年のことなんですけどね私。
でも、私はこれからもまだまだ彼を見ていられる。ピアノが聴けないくらい、なんだっつの、とも思う。
岩城さんのファンの人たちは、もう二度と目のまえで指揮する姿を見ることができないというのに。
とはいえ、「生きてること」だけを喜ぶのでは健康な芸術家に対して失礼だしあまりにも後ろ向きなので、私はこれからも「ボロージャよ、ピアノ弾いてくれ…」とつぶやき続けるつもりですが。
でもって、私は決めた。
惚れてる間はめいっぱい遊ぶ。できるだけ演奏会にも行く。恥ずかしがってないで握手も求めよう。姿を、声を、音を、記憶しよう。と。
同時代であることを大事にしたい。だってそれはやっぱり「恵み」だもの。