タイタニック号の音楽

先日(先月の15日)、ちょうどその日がタイタニックの沈没した日だという記事を読んでいたせいかもしれませんが、こんなアルバムを聴きました。

タイタニック号の音楽 ~ イ・サロニスティ

タイタニック号の音楽 ~ イ・サロニスティ

このアルバムではサロン・ミュージックの魅力をたっぷりと味わえます。
サロン・ミュージックの真髄というのは結局のところ、音楽よりもそれを聴いている当の人間があくまでも主役だというところにあるんだろうなぁという気がします。
音楽が人を支配しない。
楽しそうだったりセンチメンタルだったりという様々な情感を空気のようにさりげなく垂れ流し、他人の人生のバックミュージックとなることにやぶさかでない音楽、というか。
音楽は聴き手の都合でどのようにも解釈される。
いかように解釈されても構わないくらいの「軽さ」あるいは「懐の深さ」で誰かの人生の隣で流れている。


このアルバムに入っているのはクラシックの名曲だったりもするのですが、フルオケで演奏するべきものを室内楽編成のバンド向きにアレンジしてあるせいもあって、いずれも庶民的なサロンミュージックへと変貌を遂げております。
簡単に言えば安っぽいわけ。
でも、安きは悪しきか?といえばそうではなく、むしろ「別の役割を与えられた」音楽となっている気がします。
音楽が人のためにあるのなら、これもまた素晴らしき音楽ではないでしょか。
むしろ、簡単に寄り添ってくれるぶん、癒し系なのかもしれません。
そしてこの曲集には物語がついている。誰の涙をも誘う、悲しい物語が。


タイタニック号が処女航海の途上に消息を絶ったのは、1912年4月15日のことです。
映画「タイタニック」で、その時の様子が少しは再現されているので、その恐ろしさや悲しさを想像することも少しはできましょうが…この曲集を聴いても、当時の情景を想像することができます。
だから本当のところ、聴くのが怖いアルバムでもあるのです。
これを初めて聴いた晩、金縛りにあいましたし(汗)。って、そんなことをこのアルバムのせいにしちゃダメですね。関係なかったらヌレギヌだ。ごめん。
あくまでも入っている曲は軽やかで幸せな曲調の音楽ばかりです。優雅な旅のお供に最適な。
実際にタイタニック号で演奏予定だった曲目を、映画「タイタニック」でも音楽を担当したイ・サロニティというサロンミュージックの有名どころが演奏しています。


いつ聴いてもうっとりしてしまうチャイコフスキーの「ただ憧れを知る者のみ」。
「カヴァレリア・ルスティカーナ」の間奏曲を聴くともう、涙腺がぶわ〜っとユルくなってしまう。
こういうオムニバスに入っていてもひときわ退屈で(爆)、そのくせ磐石な世界を表出しているJ.シュトラウス2世の「ウィーン気質」。
バーリンの曲「Everybody's Doing it Now」などは当時の新曲だったそうですが、まさに時代の息遣いを感じる曲です。とはいえ、私がこういうの聴いて思い浮かべるのは浦安はディズニーランドのペニーアーケードにあるからくり絵だったりするけど(どのみち楽しいイメージ)。
そして「威風堂々」に続く賛美歌「主よ、みもとに近づかん」に至っては、もう涙なしには聴けません。
この曲を聴きながら冷たい海の藻屑となっていった人たち…そして、死を目前に、最後まで音楽を奏で続けた楽団の人たちの心を思うと、音楽に何か別の力がくっついてくるようです。


音楽は物語で解釈するべきではなく、「音」として聴くのが正解なんですよ、と言う人がいます。
もちろん音楽はそのものに力がありますし、純粋に音の妙味を楽しめればそれはとてもステキなことです。
けれど、音には人の想い(思い込み、でも)がこもって初めて生まれてくる感興ってのもあるのではないでしょうかね。
そして、人間のいるところ必ず物語があるんですから、やはりそれを想像しないわけには行きません。


かつてこのような音楽を聴いていた人たちがいた。
そしてその人たちの運命を後世の私たちは知っている。
その悲しさを想像しながら聴いても、この親しみのあるサロンミュージックたちはきっと受け入れてくれる、という確信があります。


蛇足ですが、キャメロン監督の「タイタニック」は名作だと思います。
ジャックという存在が「乗船名簿に名前が無い」という・・・その示唆ひとつとってみても、これを珠玉だと思うのです。
要するに、人間が「生きる」ということは名簿に名前が載ることではなく、「死ぬ」ということは墓碑銘を刻むことではないのだ…ということを教えてくれる物語だから。
誰かの心に残ってこそ、人は生き続ける。
誰かを心に残してこそ、人は生き続ける。
人生がなぜ素晴らしいかということの一つの答えを見るような気がします。