そこにあったのは、全身全霊の音でした。

4月18日。サントリーホール
半年間、待ちに待った記念すべき初キーシンの日。
ところが私は朝からすこぶる体調が悪く(昨日から偏頭痛がしている)、しかも昼に急なアクシデントが発生したため、バタバタとあっちへ行ったりこっちへ行ったりしているうちに、出かける時間になってしまいました。
そこらにあった服にさっと着替え、汗だくの顔にノーメークのまま家を飛び出し、慌てて自転車を車庫から出したら金網に手をひっかけザクッと切ってしまい、流血。そのままダッシュで駅に行くも、予定の電車には乗り遅れ。遅れた電車でようやく着いた溜池の駅からホールまでまたダッシュ。ここで持病の不整脈発生。喘ぐようにたどりついた時には開演時間ギリギリ5分前。
朝から何も食べてなく、トイレもろくに行ってなく、昨夜からの頭痛は今やピーク。指には絆創膏、髪振り乱し全身汗だく。
涙が出てきました。惨めで、情けなく、ツラくって、痛くって。
なんでこんな大事な日に、私は踏んだり蹴ったりな最悪な状態なんだろう。なんという間の抜け方か。もしやアシュケナージに浮気した罰か?(え?)


ところが、会場が薄暗くなり開演の時間が迫ったら、なぜか頭痛が止み、気持ちがスーッと異次元に持っていかれるような気がしました。
どうにか、「間に合った」って感じ。
そして間髪おかずキーシン登場。


目の前に現れたキーシンは…ああ、やっぱり信じられませんでした。そこにいるなんて。
存在が、この世のものではないようです。
同じ空間を共有しているなんてウソみたい。
でも次の瞬間、聴こえてきた音は、その音は、私の心にがっつりと染み込んでいるあの馴染みのある(すでに)懐かしい音でした。毎日毎日飽きずに聴いた、紛れも無く、間違いようも無く、それは私の大好きなキーシンの音!
私はずーっとずーっと呆然と、口をポカーンと開けたままで、薄らぼんやりと、ステージを見ていました。
で、時折目を閉じる。そうすると、慣れ親しんだ音が聞こえてくる安心感に頬が緩む。
で、ゆっくりと目を開けると…そこには本当のキーシンがいるんです!
ああ…嬉しいぃ(涙)。もう、これだけで満足。


キーシンは見たくれだってステキでしたよ。
全然太ってなんかいなかったし。オジさんでもないし。若々しくてきれいで、でも歳相応に堂々としてる。
このヒトは写真写りがメッタクソ悪いんだなぁとあらためて思いました。実物は本当にカッコイイ。
お辞儀の仕方はアレだけどもね。不器用っていうか(^^;;。でもそれもキーシンらしい誠実なオーラを感じさせるものです。
それと、キュートだと思ったのは、出てくるたびに髪をなでつけてくるんですが、演奏しているうちに(ヘッドバッキングをするので)髪が湯戻しの乾物か何かのように(?)ホヤホヤと膨らんで、演奏後には見事にタンポポの綿毛と化していたところ。


席が、ちょうどキーシンの顔が良く見える場所だったのですが、ビミョウに私の視力が悪く、キーシンの表情はかすかにボケて見えました。
ぼんやりとした焦点の合わない視線の先で、キーシンは何かと闘うようにピアノを弾いていました。
ピアノをガシッと抱き寄せるかのように全身を使ってうねってました。
身悶え、顔をゆがめ、唸りながら、苦しそうに。
その姿はもしかしてベートーベンはこんなだったのかも…な、憑依の姿でもありました。そしてとても痛々しい感じでした。
私の(今までビデオで見たかぎりで)知っているキーシンは、こんな弾き方をしていません。もうちょっと淡々と、でも、きっぱりとした優等生的な弾き方だった。
キーシンは、変わってきているのだ、と感じました。そりゃそうか。35歳になるんだものね。
いつまでも「神童」ではないし、「心が伴わないヴィルトォーゾ」と言われるのもウンザリでしょう。そんな壁を乗り越えようともがいているようにも見えました。というのはそこらの評論家がしじゅう言ってることなんで聞き飽きた感があったんですが、まさに目の前のキーシンはそんな感じだったので、なるほどな、と思った次第。
でも、今回の演奏にはすごく自分(自我という意味ではなく…なんというか、自分の存在そのもの)が投影されている気がしたので、そこはすごい変化なんじゃないかなぁと思いましたが。
ベトベンだって、あのベトベンは…きっとかなり個性的だし。
スケルツォはもう、圧倒的でしたね。あんな叫びのような痛いスケルツォを聴いたのは初めて。打鍵が強すぎで、キリキリと胸に刺さる。


正直なところ、決して幸福感にみちたステージではなかったです。
なので、私も幸福感だけに包まれるという感じではありませんでした。
その音を聴けたことは幸福だったけど…キーシンの姿を見て、いろんなことを考えてしまったんでね。
圧倒的な孤独や、積み重ねてきたであろう想像を絶する過去や、それでも安住できない場所にいる苦悩を、感じました。
そんな混沌とした誰の理解も及ばない暗い土壌から生まれた真白き稀有な花を見て、ただそのひたすらな美しさと存在感に心を打たれても、手放しで嬉しがったり気軽に摘み取ったりできないでしょう?
端的に言うとそういう心境。
その花は、全身全霊でそこに咲いているのです。たった独りで。
その気高さと悲しさの底知れなさといったら!


本プロ後、アンコールは全部で5曲。
川崎や大阪より少なかったけれど、私はもうこれで十分でした。
サイン会も無かったみたい(すんなり帰ってきてしまったので、後でどうなったかは知らない)。
でも、「がっかり」って気持ちはまるでなかったです。本人を目の前にしたらそういうミーハーな気持ちはまるで消えた。
花束隊もおりましたが、気にもならなかった。
彼女たちの欲望はキーシンには届かないのが見えるようで、少しせつない感じでしたよ。
明星に花を渡すのとは違うね。客の立場からすりゃどっちもファンとして同じだ、とか思うでしょう?でも違うの。違うとわかった。
あ、でも、小さな子供が花を渡したときのキーさんの笑顔は…良かったですねぇ。
というわけで、早くハケたので終電で帰れました。ホテルに泊まる必要も無かったです。




終電の、ひとけの無い駅のホームを眺めながら、キーシンの深い孤独を思いました。
「キーさんが幸せでいてくれたらいいな」と、ぼんやりと願ったりして。
大きなお世話ですけどね。
結局私はそうなんだ。
彼の仕事の内容がどうこうより、彼が幸せであってくれたらそれでいいと思ってしまう。彼の仕事を愛してないわけではないんですよ。むしろその仕事に惚れこんでいるんだし。
でも。だからこそ。それが生み出されてくる母体が幸せでなければいけない、と思ってしまうのよね。本人が幸せなのだったら、たとえ音楽をやめてもそれで全然許せちゃうファンなのです。

音を批評したり、「あの解釈は良かったね」などという分析をするような気分には到底なれない。
こっちが何か言うことなど(たとえ賞賛であれ)ものすごい無意味なように思えてきちゃって。
言葉なんてないですよ。
申し訳なくて何も言えない。
私がキーシンを聴きに行く時、そこは自由にブーイングさえ言えるような「楽しい」ステージには成りえない気がする。
聴衆としての私はたぶん成熟してないダメダメちゃんなんだろうな、と思いますよ。
私は単なるキーシンファンなんですよね、結局。無条件でリスペクト。
もういいし、それで。
でも、思えばキーシンのファンでいることってのは、何か…ちょっと重いものを引き受ける覚悟みたいなものを要するのではないか?…みたいな気がしなくもない。うまく言えないけど。可愛かった神童の頃ならともかく、これからはもっとそうだ、きっと。


明日はコバケン@東フィルのイベントステージに行って来ます。
こっちは心置きなくブーイングも(もちろんブラーボ!も)できそうなステージ。ああ、気楽。楽しんできます。
宝物(キーシンとの記憶、ね)は心の奥に大事にしまって、明日からはまたミーハー・クラ迷として過ごすのだ(笑)。

■追記
アンコールは↑のとおり。
シマノフスキーは初聴きでしたが、すごく良かったです!
この中で一番グッときた。
リストは曲芸でしたね(笑)。すごい!さすがヴィルトォーゾ。
アンコールの途中でゾロゾロ帰る人が多いのには驚いた。