「岩城音楽教室」美を味わえる子供に育てる/岩城宏之・著

指揮者の岩城宏之氏が書いた「音楽教育」の本です。
ホントは子供の教育のために参考になるかと思って読み始めたんですよ。だってこういう題名だからね(笑)。
でも、これは子供のための本というより、悪しき固定観念に縛られた親たちの心をほぐしてくれるものでした。ひいてはそれが子供のためにもなるわけですが。
ここに書いてあるのは知識や方法論を説く「教育」ではなく、もっとうーんと本質的な「音楽ってなんだ?」という答えを探す道のりです。
岩城さん自らの経験に裏付けられたものです。
音楽というのは「わかる」「わかんない」の話じゃないということを、こんなに「わかりやすく」語ってくれている本はなかなかないですよ。


思えば音楽家よりも評論家のほうがよほどガチガチな「おベンキョー」大好き人間だという気がするね。
そのせいでクラシックの敷居が高くなってるとしたら、罪な話ですわ。
指揮者や奏者が涙ぐましいほど一生懸命に音楽の楽しさをアピールしても、「レコード芸術」の評論読んだだけで、純朴な聴衆はビビりますもん。知識がないと音楽を聴く資格がないとさえ思えてしまう。←こんなことを思うほうがバカだ、というのはもちろん承知ですが、実際は(私自身も含め)こんな人が多いのです。
それは権威主義的な価値観が音楽界を取り巻いている、ってことなんですよね。


こないだ、岩城さんが2004年の年末にベトベンの交響曲ぶっ通しライブ(なんと9時間!)をやったときのライブCDが出ましたが、そのときの宇野功芳氏のCD評(レコ芸1月号掲載)を思い出しました。
宇野氏曰く「ワルターフルトヴェングラーが生きていてこの話を聞いたらどんなに嘆くことか。朝比奈先生なら怒り出すだろう。とにかくやっつけ仕事しかできはしない。(そんなライブをCDにするなんて信じられん)」。
私はこの評を読んだとき、ちょっと違和感感じたんですよね。
これ、気に入らないの宇野さん自身なのに、こんな言い方はズルイなぁーと。
ワルターもフルベンも「勝手に名前出すなよ」と思ってることでしょう草葉の影で。朝比奈先生もずいぶん狭量な人間と見積もられたもので、お気の毒です。
しかも宇野氏はこのライブ、聴いてもいないんですよ。要するにこれは「音」に対する批評でさえない。スタイルに対して因縁つけるという、ものすごくくだらない位置での物言いです。しかも権威をかさにきている。
こんなろくでもない「評論」が、音楽家の演奏より「もっともなこと」だと思われているとしたら世も末です。
どんな形で演奏しようが、そりゃ指揮者の勝手でしょう?聴く聴かないの選択の自由は聴衆にあるんだから気に入らなかったら放っておけばいいでしょう?こういった「お祭り」があったって全然かまわないと思うし、CDにしたっていいじゃん。
じゃ、「ちゃんとした」演奏って、いったいどんなのなんですか?って逆に聞きたいね。絶対に答えられないはず。だって音楽に答えなんて無いんだから。
こういった茶目っ気のあるコンサートをやっちゃお!という岩城さんの心の有り様と、それを良しとしない宇野さんの心の有り様がすごいコントラストとなって感じられます。
二人の心の中の「音楽」は、全く違う位置づけなのかもしれないなぁーと感じさせる一件だったのでした。


岩城さんみたいに現場で実際に指揮をとっている人が、こういった本を書いてくださることは、迷える聴衆にとって大きな意味を持つような気がします。アーティストよりも評論家のほうが圧倒的に、言葉が多く、それはある意味アーティストにとっては不利なんだと思うのよ。
本来、芸術家は作品で表現を完結し多くを語らない…てのがあるべき姿なのかもしれませんが、そこを斟酌するほどこなれた聴衆ばかりではないのが現状なので、時には芸術家自身が言葉を発するのが必要なのだと思う次第。